26人の人物像とは?日本二十六聖人の歴史を簡単解説

きっかけはウワサ?日本二十六聖人の歴史を簡単解説
記事の内容

日本二十六聖人の歴史をわかりやすく紹介します!

  • きっかけは、日本を支配するというウワサ
  • 最初は24人、長崎への道中に26人となった
  • 26人の人物像一覧
  • 見せしめのため、長崎で処刑
  • 最期までキリスト教を信仰した26人
  • 殉教が世界に広まり、26人は聖人となった

こんにちは、トリぞーです。

この記事は、日本二十六聖人に興味があるよって人に向けた内容です。

  • 名前は聞いたことあるけど、よく知らない…
  • 26人って具体的にダレ?
  • なんで日本二十六聖人っていうの?

これらの疑問に応えます。

学校では教わらないマイナーな歴史なぶん、できるだけ詳しく紹介します!

分かりやすさにも力をいれます

少しでも興味がある方は、ぜひ見て下さい!

目次

日本二十六聖人とは?

西坂公園にある日本二十六聖人の記念碑

戦国時代、日本にいるキリスト教徒(キリシタン)26人が処刑されました。

処刑の場は長崎。

26人は信じるキリスト教のために、命をおとしたのです。

これを殉教(じゅんきょう)といいます。

26人の殉教は、日本初の大殉教となりました

これらは、日本二十六聖人とよばれています。

長崎市には、当時の資料を展示している日本二十六聖人記念館があります。

殉教のきかっけはウワサ?

紙に切り抜かれた十字架

殉教のきっかけとなった出来事は、スペイン船のサン・フェリペ号事件です。

慶長元年(1596)フィリピンからメキシコに向かっていたサン・フェリペ号が、

台風によって高知県の浦戸に漂着しました。

土佐(高知)領主の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、豊臣秀吉に報告します。

元親「ボス!スペイン船が漂着したやき!

元親「財宝がたくさん積んであるちや!

朝鮮出兵や大地震で経済的に余裕がなかった秀吉は、サン・フェリペ号の積荷にめをつけます。

側近である、増田長盛(ながもり)を浦戸にむかわせ、積荷を没収しました。

長盛はそのとき、スペイン船の航海士から驚くべきことを聞きます。

航海士「スペインは日本を支配するために、キリスト教をふやしている

長盛「マジ…?

航海士の発言は定かではありません

長盛はすぐに秀吉へ報告。

秀吉「えらいこっちゃで!

秀吉「とりあえず、近くのアイツら捕まえて!

秀吉は京都で布教をおこなっていた、スペイン系修道会「フランシスコ会」の宣教師を捕まえます

宣教師「秀吉サン、積荷トッタデショ?

秀吉(ギクーっ

宣教師「ソノ顔トッテルネ、返シナサイヨ

秀吉「はい、バテレン追放令!

秀吉「船に宣教師のってましたー!

秀吉はすでに出していたバテレン追放令をもちだし、積荷の没収を正当化します。

さらに、日本の驚異になるとして、キリシタンたちまでも捕まえました。

有名なイエズス会はポルトガルのキリスト教グループ。

フランシスコ会はスペインのキリスト教グループです。

イエズス会はバテレン追放令のため、活動をひかえていました。

しかし、フランシスコ会の宣教師ペドロ・バプチスタは活動しまくりだったのです。

やっとこさ天下を統一した秀吉にとって、キリシタンは驚異でした。

秀吉「キリシタンとかマジファックやでー

秀吉「そもそも追放令あるのに、布教ってマジファック

秀吉「よし、ファックや

秀吉は石田三成(みつなり)に、フランシスコ会士とキリシタンを処刑するように命じます

26人はこんなメンバー

日本二十六聖人記念碑の原画

当初は多くのキリシタンが捕まったが、三成のはからいで24人に減らされました。

はじめは26人じゃなくて、24人だったんですね

名前年齢出身職業、役割
フランシスコ不明伊勢大工
コスメ竹屋不明尾張刀研師
ペドロ助四郎不明不明不明
ミゲル小崎46伊勢弓職人
ディエゴ喜斎64岡山伝道師
イエズス会修道士
パウロ三木33摂津説教師
イエズス会修道士
パウロ茨木不明尾張酒屋
ヨハネ五島19五島伝道師
イエズス会修道士
ルドビコ茨木12尾張フランシスコ会に勤務
アントニオ13長崎
ペドロ・バプチスタ48スペイン人フランシスコ会司祭
マルチン・デ・ラ・アセンシオン30スペイン人フランシスコ会司祭
フェリペ・デ・ヘスス24メキシコ人フランシスコ会司祭
ゴンサロ・ガルシア40ポルトガル人
(インド生まれ)
フランシスコ会司祭
フランシスコ・ブランコ26スペイン人フランシスコ会司祭
フランシスコ・デ・サン・ミゲル54スペイン人フランシスコ会司祭
マチアス不明不明不明
レオン烏丸50尾張
ベントウラ25
or
26
京都
トマス小崎14伊勢
ホアキン榊原40大阪フランシスコ会の料理人
フランシスコ48京都医者
トマス・ダンギ36不明薬種商
ファン絹屋28京都絹織物商
ガブリエル19伊勢
パウロ鈴木48尾張病院の管理人

空欄はわかり次第、入力していきます。

フランシスコ

京都で大工をしてました。

殉教の8ヶ月前に洗礼をうけ、フランシスコ会につかえます。

最初の殉教者24人と一緒に歩いていたましたが、捕らえられました。

コスメ竹屋

イエズス会より洗礼をうけ、フランシスコ会につかえます。

大阪の教会が完成したとき、

マルチンの手伝いをするため出かけたところ、捕えられました。

ペドロ助四郎

オルガンチーノから殉教者の世話をするようにと、つかわされます。

途中まで自由な身で、殉教者の手紙を手配していたが、

下関についたときに捕られられました。

ミゲル小崎

トマス小崎の父。

フランシスコ会につかえ、京都と大阪の教会建設に力をつくしました。

ディエゴ喜斎

はやい時期からキリシタンでした。

晩年、大阪のイエズス会につかえます。

殉教の日に正式にイエズス会に入会しました。

パウロ三木

安土セミナリヨの第一期生。

1585年にイエズス会に入会し、有馬と天草で勉強します。

その後、長崎と大阪で布教活動をおこなっていました。

パウロ茨木

レオン烏丸の兄。

イエズス会士により、洗礼をうけます。

若いころは武士でしたが、その後フランシスコ会ではたらきました。

ヨハネ五島

幼いころから長崎の「岬の教会」へかよい、

有馬のセミナリヨで学びます。

殉教の日に正式にイエズス会へ入会しました。

ルドビコ茨木

パウロ茨木とレオン烏丸の甥。

殉教者のなかで最年少となります。

京都のフランシスコ会ではたらきました。

アントニオ

中国人の父と日本人の母をもちます。

イエズス会で学び、のちに京都のフランシスコ会でも教育をうけました。

ペドロ・バプチスタ

1593年、フィリピン総督の使節として来日します。

京都に教会と病院をたて、貧しい病人の父といわれました。

マルチン・デ・ラ・アセンシオン

1593年、長崎に上陸し、京都へむかいます。

大阪行きを命じられ、日本語を学びながら働いていました。

フェリペ・デ・ヘスス

メキシコで司祭に任命されるため、サン・フェリペ号にのっていました

船にのっていた宣教師の中で、ヘススだけが監禁され、

長崎へむかいました。

ゴンサロ・ガルシア

1572年、伝道師になるため、平戸ではたらきながら日本語を学びました。

ペドロ・バプチスタとともに再来日し、秀吉に会ったさいは通訳をつとめました。

フランシスコ・ブランコ

1596年、マルチンとともに長崎に到着したのち、京都へむかいます。

京都の教会で日本語を学び、数ヶ月でキリシタンの告白を聞くことができました。

フランシスコ・デ・サン・ミゲル

スペイン、メキシコ、マニラで司祭たちの活動をささえました。

ペドロ・バプチスタとともに来日します。

京都では教会の炊事と受付の仕事をしていました。

マチアス

京都の教会の名簿にのっていた、料理人のマチアスを役人が呼びだすも不在。

「私もマチアスで信者です」と、代わりに名のりでた人物とされています。

レオン烏丸

パウロ茨木の弟、ルドビコ茨木のおじ。

30才まで僧侶でしたが、イエズス会のもとで洗礼をうけます。

バプチスタらの教会建設に力をつくし、病院でもはたらきました。

ベントウラ

幼いころに洗礼をうけます。

継母により、20年ほど寺にあずけられます。

フランシスコ会をおとずれ、バプチスタの布教をささえました。

トマス小崎

ミゲル小崎の子。

大阪でマルチンの手伝いをしていました。

サン・フェリペ号事件のあと、京都へむかうフェリペを案内し、捕らえられました。

1月1日、京都の牢屋で父と再会します。

ホアキン榊原

体が弱く、重い病気をわずらっているときに洗礼をうけます。

病気をわずらいながらも、大阪の教会建設を手伝い、

料理人としてはたらきました。

フランシスコ

大友宗麟につかえ、宗麟のロザリオを形見として持っていました。

フランシスコ会で洗礼をうけます。

キリシタンの名簿に自分の名前がなかったので、代官にのせるよう申しでました。

トマス・ダンギ

レオン烏丸にみちびかれ、フランシスコ会をおとずれます。

フランシスコ会で最初の信者のひとり。

大阪の教会の近くで、薬屋をひらいていました。

ファン絹屋

キリシタンであった兄のすすめで、信仰を学びます。

殉教のすこし前に、妻と幼い子どもとともに洗礼をうけました。

ガブリエル

京都の代官のもとではたらいていたが、

ゴンサロと知りあい、洗礼をうけます。

両親や親戚は反対しますが、父はガブリエルの姿をみて、洗礼をうけました。

パウロ鈴木

若いころは武士でしたが、妻とともにフランシスコ会教会近くに住んでいました。

病院の管理人としてはたらいていました。

殉教地が長崎だった理由

西坂公園の入り口

長崎はキリシタンの町として栄えていました。

秀吉はバテレン追放令を出したものの、貿易をやめるワケにはいきません。

貿易のため、長崎に宣教師が住むことを認め、布教は見ないフリをしました

長崎での処刑は、キリシタンへの警告だったのです。

秀吉「別にキリスト教がアカンって言ってないで〜

キリシタン「いやいや、処刑されるやん…

秀吉は26人を1ヶ月かけて、京都から長崎まで歩かせました。

秀吉のキリスト教に対する考えを、人々に知らしめるためです。

秀吉「だからー、アカンっては言ってないやん

殉教ちは現在、西坂公園として整備されています

どんな処刑だったのか?

日本二十六聖人の殉教の絵画

慶長2年(1597)2月5日、長崎の西坂の丘に26本の十字架がならびます。

午前10時、26人は到着してすぐに十字架に縛られました。

パウロ三木はナワで縛られるとき、役人から胸をふまれます。

ロドリゲス宣教師がやめるように伝えると、

パウロ三木は「たいしたことではありません」と答えたそうです。

全員が縛られ、いっせいに十字架がたてられました。

26人の前には4,000人の人々。

静まりかえった場にルドビコの声がひびきます。

ルドビコ「パライソ(天国)、イエス、マリア

ゴンサロは詩をとなえ、マルチンは高らかに歌います。

アントニオは群衆の最前列で泣いている両親をなぐさめ、はげましました。

パウロ三木は力強く訴えます。

「私はルソン(フィリピン)からきた人間ではなく、れっきとした日本人です。

私が死ぬのは主イエスの教えを信じて、のべ伝えたからです。

私は秀吉さまも役人さまも、死刑にかかわる人すべてを許します」

やがてヤリを持った2人の役人が、列の両側から処刑を開始します。

しだいに26人の声は小さくなり、正午にはすべてが終わりました。

殉教後の歴史

本の上に座る小さな男性の人形

慶長2年(1597)の殉教いらい、西坂の丘は、

「聖なる丘」、「殉教者の丘」とよばれるようになりました。

殉教はポルトガルやスペイン、メキシコ、イタリアなどに伝わり、大きな影響を与えます。

寛永4年(1627)教皇ウルバノ8世により、殉教者26人は福者にくわえられました

福者とは、生前にめっちゃキリスト教を信仰して、よい行いをした人に、死後あたえられる勲章

聖人となった26人

文久2年(1862)6月8日、教皇ピオ9世により、福者26人は聖人にくわえられ、

日本二十六聖人となったのです

聖人とは、伝説になるような人物、信者の模範となる人物にあたえられる勲章

大浦天主堂

大浦天主堂の外観

安政5年(1862)江戸幕府は外国と、修好通商条約をむすびます。

条約のなかには、宗教の自由や礼拝堂の建設もふくまれていました

慶応元年(1865)フランス・パリ外国宣教会は、長崎の大浦に天主堂をたてました。

大浦天主堂は日本で殉教した26人に捧げられた、天主堂なのです。

正式名称を日本二十六聖殉教者天主堂といいます。

信徒発見

当時の大浦天主堂は外国人のための教会であり、フランス寺とよばれていました。

主任司祭のプチジャン神父は、教会の正面に「天主堂」と日本語で案内をだします。

大浦天主堂に、ひそかに信仰をつづけてきたキリシタンがあらわれ、

潜伏キリシタンの存在が初めて明らかになりました。

これを信徒発見といいます。

大浦天主堂は現在、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の1つとなっています。

信徒発見により、潜伏キリシタンの終わりの場所として、世界遺産に登録されました

まとめ

今回は日本二十六聖人の歴史について紹介しました。

  • 殉教のきっかけは、キリスト教をつかって日本を支配するというウワサ
  • 最初は24人、長崎への道中に26人となった
  • 見せしめのため、キリシタンが多い長崎で殉教が行われた
  • 26人は処刑の最期までキリスト教を信仰した
  • 殉教の話が世界に広まり、26人は聖人となった

以上が日本二十六聖人の歴史となります。

信仰の力とはスゴイようで、怖さも感じますね。

ありがとうございました!

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