歴史が趣味となった瞬間を紹介します。
・きかっけはマイナー大名の筑紫氏。
・歴史は点と点がつながった瞬間が最高!
好きな柄はキリン柄、トリぞーです。
歴史が趣味のオッサンが、歴史に興味を持ったきっかけを紹介します。
歴史に興味がなかった頃、散歩をしているとある看板を発見します。
別に気にもとめず、後日登山へ。
山頂で発見した看板に見覚えのある人物名が。
歴史に興味がなかったオッサンが、歴史が趣味となる瞬間!
柴田城跡
柴田城跡は福岡県筑紫野市天山地区にあります。
柴田城跡の発見は、たまたま天山地区を散策したことがきっかけでした。
天山地区を散歩していと、こんな看板を発見。
この案内の通りに進んでいると、道沿いに柴田城跡の案内が出ていました。
柴田城跡は少しだけ高台になっており、細い道を上るとそこにはそこは石碑らしきものが。
案内には応安5年(1372)菊池武光の砦?と書かれています。
この時は歴史に興味があるわけでもなく、筑紫広門の名前も頭には残りませんでした。
勝尾城跡
後日、こちらは趣味である登山へ。
場所は佐賀県鳥栖市にある城山。
登山口付近で勝尾城筑紫氏遺跡の案内があったものの、まだ気にも留めない程度でした。
山頂につくと、勝尾城の跡が紹介されています。
城山はそれほど有名な山ではないのか、登山客が他にいない。
山頂をひとり占めできるのでゆっくりと過ごしていると、城山を説明している案内を発見しました。
この頃は大河ドラマを見てることが大人であると、意味不明な感覚があり『西郷どん』を見ていました。
説明文を読み終盤に「薩摩・島津の攻撃により落城」とあります。
「西郷どんの島津ね、へぇ~」
歴史の説明って1度読んだくらいじゃ頭に入らないので、再度読んでみる。
筑紫一族…?広門?なんか見覚えが…。
歴史に興味が出た瞬間
さらに後日、天山地区にある宮地岳へ登山をしにいったときでした。
再び柴田城跡の看板に目をやると筑紫広門と書いてある。
あー!見覚えあると思ったらコレか!
教科書やテレビでしか感じることがなかった歴史がこんな身近に、そして実際に感じることができた瞬間でした。
この出来事がきっかけで、一気に歴史に興味がわいてきたのです。
それからは歴史書を読んだり実際に訪れたり、新たな趣味となりました。
特に登山中に見た案内に出てくる武将や城を歴史書で見た瞬間は、点と点がつながった感覚がたまらなく好きになりました。
筑紫氏
筑紫一族は父の筑紫惟門(これかど)、息子の筑紫広門(ひろかど)親子の時代が全盛期。
鳥栖市を基点として近辺を支配し、各地に城を築きました。
筑紫氏は少弐氏の配下の小大名であり、筑後上妻郡(福岡県筑後市)や肥前基津郡・養父郡(佐賀県鳥栖市)の一部を領するだけでした。
少弐氏が没落した後は大友氏の配下となります。
筑紫惟門は大友氏に属しながら耳川の戦いで大友氏が敗北すると、秋月種実(たねざね)と協力し、宝満城の高橋紹運(じょううん)を落とします。
高橋紹運を破った筑紫惟門ですが、息子の筑紫広門は豊臣秀吉が中央で力を持っていることを知ります。
すると広門は秋月種実と離反。
今度は高橋紹運と和解し、高橋紹運の息子と自分の娘との婚姻を成立させます。
この一連は、いずれ秀吉の大軍が九州に来ることを察知した広門が、島津は秀吉に勝てないと踏み大友側に鞍替えしたものです。
当時の大友氏は滅亡の危機に立っていましたが、豊臣・大友連合軍を選んだ筑紫広門は先見の明があったと言うことです。
しかし、島津連合軍の攻撃にあい筑紫広門は降伏し、筑後の大善寺に幽閉されます。
その後、秀吉の大軍が九州に上陸すると大善寺から逃げ出し、軍を立て直すと筑後上妻軍一万八千石を安堵されました。
ところが、筑紫広門は関ヶ原の戦いで西軍に着いたため、筑紫家は地位を下げ広門自身は剃髪。
加藤清正や細川家を頼りましたが、大名として復活することは出来ませんでした。
おわりに
今回は歴史が趣味になった瞬間と、きっかけの筑紫広門について紹介しました。
マイナーと思っていた筑紫家を調べると、豊臣秀吉だったり関ヶ原の戦いだったり、めちゃくちゃメジャーな歴史にたどりつきます。
このアハ体験的な瞬間がたまりません。
これかも九州のマイナー所で楽しみつつ、全体的な日本史の知識を身に着け、ゆくゆくは歴史能力検定に挑戦したいと思います!
ありがとうございました!
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