菅原道真の怨霊伝説とは?左遷関係者のその後の運命

不幸な出来事に押しつぶされる人の絵
記事の内容

菅原道真の怨霊伝説を分かりやすく紹介します!

  • 諸悪の根源・藤原時平の病死
  • あいつぐ落雷
  • 災害もつづき、道真のタタリというウワサが広まる
  • 怨霊伝説の背景には、道真に人望

1日2回プロテイン、トリぞーです。

この記事は、菅原道真の怨霊伝説に興味がある方にむけた内容です。

  • 怨霊伝説ってなに?
  • どんな出来事がおきたの?

これらの疑問に応えます。

前回は太宰府に左遷され、悲劇の死をとげた菅原道真を紹介しました。

しかし、菅原道真はここでは終わりません。

なんと、怨霊となり災いをもたらしたとのウワサが広まるのです。

タタリってこえー

目次

藤原時平の病死

落胆する男性

菅原道真を太宰府に追いやった、藤原時平。

敵がいなくなり、意のままに政治をおこないました。

しかし、心中は穏やかではありません。

目の上のタンコブはいなくなったけど…

やりすきコージーかな…

菅原道真だけではなく、まわりの人々までもが罰をうけました。

実は、チキンハートだった藤原時平

道真を流刑にしてしまい、やりすぎた自分を恥じ、

やがて病にかかってしまいます。

インドから伝わる薬も、陰陽師の祈祷も通じません。

延喜9年(909)4月、39才の若さで亡くなってしましました

落雷による事故

悩みを抱える女性

昌泰の変の、もう1人の首謀者であった藤原菅根(すがね)。

道真の左遷をとめようとした宇多上皇を、おい返していました。

菅根は、延喜8年(908)に落雷により、命を落とします。

この事故により、京では菅原道真を雷神にたとえ、

流刑にかかわった者の死は、道真のタタリだとのウワサが出はじめました

雷にうたれる確率は100万分の1だとか

道真のタタリ

不幸な出来事に押しつぶされる人の絵

道真が悲惨な死をとげた延喜3年(903)以降、

落雷・疫病・干ばつ・洪水などはいずれも、

道真のタタリだとのウワサは広まり、世間は動揺します

延喜23年(923)3月、

皇太子である、保明(やすあきら)親王が21才の若さで亡くなります。

保明親王の死も怨霊の仕業だと伝えられ、醍醐天皇もさすがにムシできません。

道真くん!オレじゃないから!

時平のウソだから!

醍醐天皇は、道真の名誉回復につとめます。

年号を延長とあらため、ひたすら道真の怨霊をしずめようとしました。

道真くん!成仏してくれ!

しずまらないタタリ

膝を抱えて俯いている女性

醍醐天皇の願いもとどかず、不幸はさらにつづきました。

保明親王の次の親王、慶頼(よしより)も5才で亡くなります。

延長8年(930)6月26日、御所の清涼殿上に雷鳴がとどろき、

落雷の直撃をうけた、大納言の藤原清貫(きよつら)は即死。

右中弁の平希世(たいらのまれよ)は顔面を焼かれ、ほどなく亡くなります。

2人の死は、道真の流刑に関与したため、

雷神によって報いをうけたとの話が広まりました

落雷の後、醍醐天皇も体調をくずし、寛明(ゆたあきら)親王に譲位します。

醍醐天皇は譲位した7日後に亡くなりました。

46才でした。

世間はますます、怨霊のすさまじさに恐れおののきます。

道真の人望

握手をしている男性

道真は私塾である山陰亭で、多くの弟子を育てていました。

人々からの人望をあつめていたのです。

弟子の心中には、道真への想いと同情であふれいます。

反面、藤原氏にたいする憤りをつのらせていました。

落雷や疫病、干ばつがつづいた災難・災害は、

道真が雷神となり藤原家に報いたという、弟子の思いがあったのでしょう

怨霊伝説の背景には、道真の人望があったと思われます

このようにして、菅原道真の怨霊伝説が生まれました。

まとめ

今回は菅原道真の怨霊伝説を紹介しました。

  • 諸悪の根源・時平は、気に病んで若くして死去
  • 部下の菅根は落雷で事故死
  • その後も災難はつづき、道真のタタリというウワサが広まる
  • 怨霊伝説の背景には、道真の人望があった

当時は医療という医療はなかったでしょう。

子どもが亡くなるのは、不思議ではありません

しかし、流刑の首謀者が相次いで落雷により命を落としたとなると、

怨霊の仕業と思ってしまいそうですね。

伝説の背景には道真を慕う者が、藤原家を非難する世の中があったのかもしれません。

まぁ左遷の道真の心境を考えると、復讐をするような人物には見えないですけどね。

ありがとうございました。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次