1日2回プロテイン、トリぞーです。
前回は太宰府に左遷され、最期を遂げた菅原道真を紹介しました。
【菅原道真】怨霊となった道真の祟り!?雷神となった伝説を紹介します!!
しかし、菅原道真はここでは終わりません。
なんと、怨霊となり災いをもたらします。
諸悪の根源、時平
菅原道真を太宰府に追いやった藤原時平。
大敵がいなくなり、意のままに政治を行いました。
しかし、意外にも心中は穏やかではありません。
時平「目の上のタンコブはいなくなったけど、やりすぎコージーやったかな…」
菅原道真だけではなく、その周りの人々までもが刑罰を受けました。
実はチキンハートな時平。
道真を流刑にしてしまい、やりすぎた自分を恥じ、やがて病にかかってしまいます。
インドから伝わる薬も効かず陰陽師の祈祷も通じず、延喜9年(909)4月 働き盛りの39歳で亡くなってしまいます。
時平の仲間、菅根
もう1人の首謀者であった藤原菅根(ふじわらのすがね)。
彼は延喜8年(908)に落雷により命を落としてしまいます。
これにより京では菅原道真を雷神にたとえ、流刑に関わった者の死は菅原道真の祟りだと噂されます。
道真の祟り
道真が悲惨な最期を遂げた延喜3年(903)以後
落雷・疫病・干ばつ・洪水などはいずれも道真の祟りだと噂は広まり、世間は動揺を隠せません。
さらに延喜23年(923)3月
皇太子である保明(やすあきら)親王が21歳の若さで亡くなります。
これも怨霊の仕業だと伝えられたことで、醍醐天皇もさすがに無視出来ません。
醍醐天皇「道真君!オレじゃないから!時平にそそのかされただけだから!」
醍醐天皇は道真の名誉回復に努めます。
昌泰4年(901)の詔書の破棄、右大臣に復し正二位を送るなどを行いました。
醍醐天皇「道真君!成仏してくれ!!」
さらに、年号も『延長』と改め、ひたすら道真の怨霊を鎮めようとしました。
祟り、鎮まらず
醍醐天皇の願いも届かず不幸はさらに続きます。
保明親王の次の慶頼(よしより)親王も5歳で亡くなります。
延長8年(930)6月26日には御所の清涼殿上に雷鳴が轟き、落雷の直撃を受けた大納言の藤原清貫(ふじわらのきよつら)は即死。
右中弁の平希世(たいらのまれよ)は顔面を焼かれ重傷を負い、ほどなく亡くなります。
これらも道真の流刑に関与したため、雷神によって報いを受けたと噂されます。
落雷の惨事の後、醍醐天皇も体調を崩し、寛明(ゆたあきら)親王に譲位しますが、その7日後に亡くなります。
46歳でした。
世間はますます怨霊の凄まじさに恐れおののきます。
道真の人望
道真は私塾である山陰亭で多くの弟子を育て人々から尊敬されていました。
その弟子の心中には道真への想いと同情の念が充満。
そしてその反面、藤原氏に対する憤りを募らせます。
落雷や疫病、干ばつなどの異変が相次いだということが、道真が雷神となり怨敵に報いたという風評となって怨霊伝説が生まれたものと思われます。
道真の冤罪による流刑と悲惨な最期は、弟子や庶民の同情と結びつきます。
そして、神として崇められる気運が醸成されていきました。
おわりに
今回は菅原道真の怨霊伝説を紹介しました。
その当時はもちろん医療という医療はなかったでしょう。
なので子供が亡くなるのも不思議ではありませんが、流刑の首謀者が相次いで落雷により命を落としたとなると現代でも怨霊の仕業と思ってしまいそうですね。
次回からも菅原道真に関することを紹介できたらと思います。
つづく!!
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