京に戻った菅原道真の活躍を紹介します!
- 京に戻った菅原道真は出世する
- 遣唐使の派遣を、道真が中止する
- 政治が律令制から、摂関制となる
餅をまくと誰でもヒーロー、トリぞーです。
この記事は、菅原道真の歴史を知りたい方に向けた内容です。
- 京に戻った道真はどうなったの?
- 道真はどんな働きをしたの?
- 日本はどう変わったの?
これらの疑問に応えます。
前回は阿衡の紛議の黒幕である、藤原佐世の陰謀を紹介しました。


宇多天皇のピンチを救った菅原道真。
京に戻った道真は、どのような活躍をみせるのか?

日本の政治が変わりますよ
道真、京へ復帰

阿衡の紛議により、あれに荒れた政界でしたが、
菅原道真の意見書により、無事に解決しました。
サンキューやで道真はん
民衆のためです
道真は天皇の信頼をえることになり、
4年間の讃岐での任期をおえ、京に戻りました。
京では、天皇の秘書である蔵人頭(くろうどのとう)、
式部少輔(しきぶのしょう)に任命されます。
蔵人頭:天皇周辺をお世話する部署のトップ
式部少輔:いまでいう、文部省の役人
さらに、最高の行政機関である太政官の次官、
佐中弁(さちゅうべん)を兼ねることになりました。
左中弁は、正五位上相当になります。
讃岐守のころは従五位下だったので、出世して京に帰ってきました。
よくもジッジを…基経のヤロー
道真がそばにいれば、うすらバカも何も言えんだろ
阿衡の紛議により、自分があやつり人形であると政界にバレた宇多天皇。
道真の出世は天皇中心の政界を実現し、基経を黙らせるための人事でした。
遣唐使派遣の中止

寛平6年(894)道真は、遣唐使の派遣を中止したいと意見します。
遣唐使の歴史は、聖徳太子による遣隋使派遣からはじまりました。
隋がほろび、唐が建国されたことで、
遣唐使の派遣へと継続された、大切な国家行事。
遣唐使派遣は、先進的な政治制度や国際文化、技術をもたらします。
日本に大きな影響を与えていました。
道真50歳のとき、重要な遣唐使派遣の中止を発表します。
道真の家系は中国の歴史について研究する家系。
もちろん道真も、心の中では中国へわたりたい気持ちがありました。
しかし道真は、以下の理由から遣唐使派遣を中止したのです。
- 唐の疲弊
- 渡唐の難しさ
- 財政難
唐の疲弊
唐では、ながく戦乱がつづきました。
国家として疲弊の極にあり、すでに没落した状態だったのです。

実際に12年後ほろびました
渡唐の困難さ
海路がけわしく、当時の船や航海術では遭難する確率が高い。
優秀な人材を失う可能性がありました。
記録によると、遣唐使船の半数強は海難事故にあっています。
財政難
派遣のための船費や旅費、土産の品々などの膨大な費用が必要でした。
また、遣唐使は日中交流のためにはじめたのに、
いつのまにか、中国の太鼓持ちになったことも不本意でした。
律令制から摂関制へ

道真には派遣を継続することで、優秀な人材を失うという危機感がありました。
しかし、道真の判断は、
当時の情勢を正確に見極めた、すばらしい判断となります。
遣唐使の中止により、中国文化のマネをすることもなくなりました。
日本に独自の文化が芽生えるのです。
そして、律令制度から摂関政治へ、
政治の変化を迎えることになります。
まとめ
今回は京へ戻った道真が、遣唐使派遣を中止したところまでを紹介しました。
- 宇多天皇は基経に対抗すべく、道真を側近にした
- 道真の遣唐使中止は、すばらしい判断だった
- 政治は律令制度から、摂関政治となる
政治の制度まで変化させた道真ですが、やっぱりでるクイは打たれます。
ますます出世する道真に、またもや嫉妬の渦が…。
どうなる道真!

つづく!
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