こんにちは、トリぞーです。
みなさんは真珠湾攻撃や山本五十六(やまもと いそろく)の名前は聞いたことがあると思います。
しかし、なぜ真珠湾攻撃が行われたのか?山本五十六が実際に何をしたのか?
詳しく知っている方は少ないかもしれません。
今回は第二次世界大戦の中でも、日本とアメリカが戦争をするキッカケとなった真珠湾攻撃にいたるまで、それを指示した山本五十六について紹介します。
戦争に反対する山本五十六
昭和14年(1939)8月30日、山本五十六は日本の連合艦隊司令長官に就任します。
就任する前、山本五十六は2度アメリカに駐在していた経験があり、巨大な自動車工場や広大な油田を実際に目にしていました。
山本五十六はアメリカの国力を知っている、わずかな日本人の1人だったのです。
「アメリカと戦争をしても日本は必ず負ける」
連合艦隊司令長官でありながら、山本五十六はアメリカとの戦争に反対していました。
日独伊三国同盟
山本五十六の考えとは裏腹に、日本はアメリカとの戦争に近づいていきます。
みなさんご存じ、日独伊三国同盟ですね。
日本の陸軍は強引に日本・ドイツ・イタリアの三国同盟を決めようとしました。
ドイツとイギリスは戦争状態にあり、アメリカはイギリスを支援。
三国同盟により、日本がドイツと手を組めばアメリカとの戦争は避けられません。
元海軍次官でもあった山本五十六は、この陸軍の行動に猛反対。
しかし、昭和15年(1940)9月27日、日独伊三国同盟は結ばれてしまいます。
日本の同盟加入に対して、アメリカは動きます。
8月、日本へ石油輸出の禁止。
現在の北朝鮮状態ですね。
日独伊三国同盟により、日本とアメリカの関係は悪化の一途をたどることになるのです。
真珠湾攻撃の作戦
山本五十六はアメリカとの戦争に反対していますが、連合艦隊司令長官という役職。
立場上、アメリカ戦の戦略戦術を考えなくてはいけません。
当時の日本は領土を南へと広げていました。
アメリカは日本の南部侵略を防ぐため、ハワイへ主力艦隊を集めます。
山本五十六はここに注目しました。
「ハワイに戦艦が集まっている今、飛行機で一気にアメリカを叩けないか…」
当時の戦争は戦艦が主流だが、今後は飛行機が重要であると山本五十六は予想していました。
しかし、この奇襲作戦はギャンブルでもあったのです。
日本からハワイ沖まで戦艦で2週間もかかる。
敵にみつからず、ハワイへたどり着くには至難のワザと言えるでしょう。
まっとうに戦っても勝ち目がない日本。
もはや飛行機での奇襲攻撃しかないと、山本五十六は及川古志郎(おいかわこしろう)大将に次のような手紙を送ります。
「開戦して真っ先に主力艦隊を攻撃し、アメリカの気力をなくすしかない。」
このようにして、真珠湾攻撃の作戦は決定されました。
真珠湾攻撃は飛行機を主力とした世界初の画期的な作戦であり、開戦に反対である山本五十六が祖国を守るために考えだした作戦となりました。
ニイタカヤマノボレ
昭和16年(1941)11月26日、アメリカは日本に手紙(ハル・ノート)を送ります。
内容は日本兵撤退、同盟離脱の要求。
日本は内容を予測していたのか、手紙を受け取ると同時に戦艦をハワイ沖へ出発させます。
「要求を飲むと以前の小国・日本に逆戻りだ」
手紙を読んだ日本は当然のように猛反対。
昭和16年(1941)12月1日、日本は御前会議によりアメリカとの開戦を決定。
山本五十六はハワイに向かっている戦艦に命令を送ります。
「ニイタカヤマノボレ、ヒトフタマルハチ」
(12月8日にハワイ・真珠湾を攻撃せよ)
このようにして真珠湾攻撃は実行されることに。
悔しくも、アメリカの要求を飲んでいれば、日本の戦艦は途中で引き返す予定だったのです。
真珠湾攻撃の実際
昭和16年(1941)12月8日、現地時間・午前8時前に真珠湾攻撃は開始されます。
この日のハワイは日曜日、アメリカ戦艦は真珠湾に停泊して休日の朝を迎えていました。
そこに日本軍は突如爆弾を落とし、魚雷を打ち込んで真珠湾を攻撃したのです。
この奇襲攻撃によりアメリカ主力艦隊は大打撃を受けました。
真珠湾攻撃に成功した日本は「トラ・トラ・トラ」という無線を送り、目の前で沈んでいく戦艦をみながら勝利を確信したでしょう。
しかし、真珠湾攻撃は完璧ではありませんでした。
主力戦艦への攻撃は成功したものの、アメリカ軍の機械工場や修理工場、燃料タンクなどの破壊にはいたらなかったのです。
これが後々のアメリカ戦に影響するのこととなるのです。
リメンバー・パールハーバー
真珠湾攻撃に歓喜した日本とはちがい、山本五十六は焦っていました。
山本五十六は真珠湾攻撃の前に「アメリカには開戦前通告を必ず確実にやってもらいたい」と何度も念を押していたのです。
しかし、手違いにより開戦前通告は行われませんでした。
通知を実行したのは、真珠湾攻撃が始まって1時間後だったのです。
このダマし討ちにアメリカ国民は激怒。
山本五十六が思い浮かべた「アメリカの気力をなくす」ではなく、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」という言葉が生まれ、アメリカは立ち上がったのです。
今までの戦争の歴史で表舞台に立つことがなかったアメリカだしたが、日本は真珠湾攻撃により眠れる獅子を起こす結果となったのでした。
こうして、日本とアメリカの戦いが始まりました。
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