四王寺山の歴史と石仏の由来を紹介します!
- 四王寺山は、4つの山からできている
- 古代の四王寺山(大野山)には大野城があった
- 大野城は日本最古の山城
- 石仏は当時の博多を、災いから守るために設置
- 三十三には、観音菩薩が33の姿に変化することに由来
- 三十三ヶ所巡ると、罪が消える
最近トイレが近い、トリぞーです。
この記事は、四王寺山と石仏に興味がある方に向けた内容です。
- 四王寺山ってどんな歴史があるの?
- なんで石仏があるの?
- 三十三体の意味ってなに?
これらの疑問に応えます。
以前、四王寺山に登り33体の石仏を巡りました。
その名も、三十三観音霊場。
今回は、33体の石仏が作られた由来を紹介します。

全部まわれなかったけど…
四王寺山

四王寺山は太宰府市の北側に位置し、
大宰府政庁跡を、後ろから見守っているかのような山です。
四王寺山には神代の昔から、古代、中世、近世にいたるまでの、
歴史や多くの伝承、物語がつまっています。

遺跡もたくさんありまーす
4つの山からできた四王寺山
四王寺山は古来、大野山とも呼ばれていました。
現在の四王寺山との呼び名は、
4つの山からできていることが、由来の1つ。
- 大城山
- 岩屋山
- 水瓶山
- 大原山
これらの山が連なり、現在は1つの四王寺山となります。
古代の大野山

天智天皇4年(665)大野山(四王寺山)に、大野城という山城が築かれました。
白村江の戦いに敗れた大和朝廷が、
倭の国(日本)を新羅(しらぎ)から防衛するためです。
宝亀5年(774)大野城の一角に、新羅からの呪いに対抗するべく、
四天王像を安置した四王院が創建されます。
その後、大野城は戦いに使用されることなく、役目を終えました。
大野山は、四王院を中心とする仏教の山として栄えたことからも、
四王寺山の呼称が一般的となりました。

伝家の宝刀、諸説あり
現在も、尾根に沿って
毘沙門天、広目天、増長天、持国天とよばれる場所もあります。
三十三観音霊場

四王寺山には、登山道などにそって石仏(観音像)がたてられています。
その数なんと、33体。
四王寺山の石仏は、江戸時代後期(1789〜1801)に、
博多浜口町などの人々により、西国三十三ヵ所霊場をモデルに作られました。
当時の博多の町では、大火事を始め、
天然痘の流行、豪雨の被害などの凶事が続いていたためです。
石仏は、四王寺山を一周する土塁線上を、周回するように配置。
最後の三十三番礼所は、中心部の四王寺集落の中にあります。
三十三の意味
三十三の数字は、観音菩薩が衆生を救うとき、
33の姿に変化するという信仰に由来します。
三十三ヶ所の観音菩薩を巡礼参拝すると、
現世での罪が消滅し、極楽往生できると言われています。
何かやらかした人は、三十三ヶ所巡ると、
新たな光がさしこむ…かも
平安末期に西国三十三観音霊場が、修行僧の遊行・巡歴コースとして定まり、
室町中期以降、民間信仰として全国的に広まりました。
おわりに
今回は四王寺山の歴史と、石仏の由来を紹介しました。
- 四王寺山は、4つの山からできている
- 古代の四王寺山(大野山)には大野城があった
- 大野城は日本最古の山城
- 石仏は当時の博多を、災いから守るために設置
- 三十三には、観音菩薩が33の姿に変化することに由来
- 三十三ヶ所巡ると、罪が消える
三十三体ある理由は、観音菩薩が33の姿に変化するからなんですね。
四王寺山は石仏の他にも岩屋城だったり、大野城跡だったりと、
たくさん歴史を感じられる場所があります。
気楽に登山するのも良いですが、
歴史を知って登ると、また違う楽しみがありますよ。

ありがとうございました!
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