コーヒー1 杯ボケ予防、トリぞーです。
歴史に興味が出てきて、半年ほど経過しました。
マイナーな歴史中心に。
そこで最初に目をつけた人物が筑紫広門。
しかし、マイナーすぎて資料がほとんどない…
筑紫広門

大友宗麟の話に行く前に、マイナー歴史にハマる切っ掛けとなった筑紫広門を紹介させて下さい。
筑紫広門(ちくし ひろかど)は肥前・現在の佐賀県鳥栖市を納めていた大名です。
と言いましても、小大名と資料には記載されていました。
鳥栖市の城山を登山した時に、たまた山頂の勝尾城を知った縁から筑紫広門を調べています。
しかし、図書館に行っても資料をほとんど発見できず。
唯一発見した資料も、参考資料にyahooとの文字…
なので別の視点から筑紫広門を調べることに。
筑紫広門から大友宗麟
数少ない資料を見ていると、筑紫広門と関わりがある人物が何人か出てきました。
少弐氏だったり、島津氏だったり。
その中で、ちらほら名前が出てくるのが大友宗麟。
名前だけは聞いたことあったのですが、名前だけしか知りません。
しかし、少し調べると大友宗麟は豊後(大分)を納めていた人だと知りました。
私は大学の4年間を大分で過ごしました。
これも縁だと思いましたので、大友宗麟を調べながら筑紫広門にも迫っていきたいと思います。
大友家

大友宗麟の家系は鎌倉期以降の守護大名から南北朝、室町期へと続きます。
室町後期から戦国大名へとなり、豊臣秀吉の近世初頭までの中世390年間を生き抜いてきた名家です。
初代の大友左近将監能直(おおともさこんのしょうげんよしなお)は源頼朝に仕えており、カワイがられていました。
大友宗麟

大友宗麟は戦国大名として、全盛期には九州の6カ国を支配しました。
しかし、晩年は島津氏との戦いに敗れ、衰退していきます。
それと共に、キリスト教に入信して信仰を深めたと言われています。
実名は大友義鎮(よししげ)
彼は戦国大名とキリシタン大名の2つの顔を持っています。
享禄3年(1530)父 義鑑(よしあき)の長男として大友宗麟は誕生しました。
場所は現在の大分県大分市。
幼名は塩法師丸といいました。
10歳で元服し五郎と名乗り、その後は新太郎と名前が変わっています。
天文9年(1540)に将軍足利義晴(よしはる)の名前をもらい、大友義鎮(よししげ)となりました。
足利義晴や足利義輝から名前をもらった大名に武田信玄(晴信)や上杉謙信(輝虎)もいます。
義鎮は1562年以降、仏門に入り名を宗麟としました。
宗麟についてはこれまで多くの研究がされていますが、未だにその人物像に関しては知将・開明的大名と見る人や、大友家を滅亡へ追いやった愚将と見る人もいます。
宗麟は優れた業績を上げたかと思えば、一転してバカな行動に走る不安定な時代があり、好不調の落差が激しく、屈折した表裏を見せています。
その原因は宗麟の生い立ちにあると思われます。
九州一の大名、大友家の御曹子として生まれた宗麟。
なに不自由ない身分が約束された、宗麟は甘やかされて苦労知らずで育ちました。
わがまま放題にして移り気、おだてに乗りやすい性格になります。
宗麟坊ちゃんは初祖・能直以来390年続いた大友家の歴史の中で、わずか37年間で大友家の人的・物的遺産をほとんど使い果たしてしまうのでした。
宗麟時代
大友宗麟が豊後を支配していたのは永禄・元亀・天正初期にかけて。
宗麟の時代は有能な部下に恵まれていました。
吉岡宗歓(よしおかそうかん)
戸次鑑連(べつきあきつら)
吉弘鑑理(よしひろ )
臼杵鑑速(うすきあきすみ)
志賀道輝(しがどうき)
以上の部下が大友宗麟を支えていました。
父である義鑑と宗麟の父子2代において、九州最大の勢力となります。
大友宗麟の転落
九州最大の勢力を持った大友家の当主・宗麟でしたが、人生最高の期間はわずか10年たらずでした。
宗麟は天正6年(1578)以降、栄光の座から転落していきます。
その転落人生のスタートは大友家の家督相続から始まりました。
つづく
今回は大友宗麟の基本情報を紹介しました。
本来なら筑紫広門について調べたいのですが、なにぶん資料が少ない…
なので、筑紫広門の資料に登場し、私も4年間住んでいた大分の歴史上の人物・大友宗麟にいついて調べていきたいと思います。
次回は大友宗麟の幼少時代から家を継ぐ話を紹介します!
家督相続には黒幕もいますよ。
続きはこちら。
つづく!!
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