大友宗麟が仏教の新妻、キリスト教のザビエルに出会う話です。
- 2番目の妻は奈多八幡宮の娘
- ザビエルとの出会いに感動
- 宗麟の心がキリスト教に傾く
豪雨だけど車の中、トリぞーです。
この記事は、大友宗麟の歴史に興味がある方にむけた内容です。
- 宗麟の2番目の妻ってだれ?
- 宗麟とキリスト教との出会いは?
前回は二階崩れの真相などを紹介しました。

今回は大友家当主となった大友宗麟が、
新しい妻とキリスト教に出会う話です。

ザビエル先輩の登場です!
2番目の妻

宗麟は二階崩れのあと、奇跡的に助かった妻と離婚します。
結婚は父・義鑑(よしあき)の意図によってムリやりでした。

オレの青春をかえせ
宗麟は妻と気があわず、心も通じていません。
そして、子供もいない。
宗麟は新時代への一新をはかり、次の妻をむかえます。
この女性が正室として、大友家で権力をふるうことになる、奈多(なだ)夫人。
奈多夫人の実名は不明とされています。
奈多は大分県杵築市奈多にある、奈多八幡宮の大宮司・奈多鑑基(なだあきもと)の娘。
奈多八幡宮は、宇佐八幡宮から分かれた神社です。
奈多との結婚は、最初の妻と離婚して間もないころと思われます。
天正5年(1577)5月19日付けの宣教師ルイス・フロイスの手紙に、
30年近い結婚生活を送っていたとの記述がありました。
宗麟と奈多との間には、男子3人、女子4人の子がいたことも、
フロイスの手紙に記されています。
長男:義統(よしすべ)
次男:親家(ちかいえ)
三男:親盛(ちかもり)

ワイの手紙やで
南蛮貿易に興味

日本におけるキリスト教布教は、九州から始まりました。
宣教師の足跡は鹿児島、長崎の平戸・大村・島原、京都、山口、大分、博多へと広がります。
日本への布教に力をいれたのが、イエズス会です。
宗麟が大友家当主となっていた、天文20年(1551)8月。
大内義隆(よしたか)の城下である山口に、
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが滞在していました。
同年にポルトガル船が、大分県日出市の港にきていたため、
宗麟はザビエルを府内に招きます。
宗麟はキリスト教への興味ではなく、貿易での利益と新兵器の入手の意図がありました。

キリスト教はよーわからん

でも新しい兵器はほしい
ザビエルとの出会い

宗麟の招きにより、大分にザビエルが到着しました。

ボンディ~ア

う、う、美しいぃぃ!

サビエルさま~!

ザビエルさまーーー!!
ザビエルが来航したさい、宗麟はその美しさに感動。
また、ポルトガル船の船長や商人らが、ザビエルを神のように尊敬しているのを見て、
宗麟も、ザビエルへの敬意を抱くようりなります。
宗麟はザビエルを丁重にもてなしました。
ザビエルも若い豊後の国主にたいして、極めて親愛の情を感じました。
宗麟は領内での布教を許可します。
ザビエルにとって宗麟は、日本滞在中にえた友となるのでした。
のちに宗麟は、ドン・フランシスコという教名をあたえられます。
ザビエルと同じ、フランシスコをうける宗麟。
ザビエルへの尊敬の念がわかりますね。
まとめ
今回は宗麟が新しい妻を迎えて、ザビエルとの出会いまでを紹介しました。
- 宗麟は、奈多八幡宮の娘と再婚する。
- ザビエルとの出会いに感動し、キリスト教に心が傾く。
新しい妻は奈多八幡宮の娘。
ザビエルとの出会いで、キリスト教に目を輝かせる宗麟。
仏教とキリスト教。
宗教のちがいが、のちに宗麟と奈多夫人との間に大きな障害となるのでした。

つづく!
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