夏はやっぱりタンクトップ、トリぞーです。
前回は大友宗麟の弟である大内義長を紹介しました。
→【大内義長】宗麟の弟・晴英が大内家へ!しかし、毛利元就により撃沈!
そしたら誰でも名前は聞いたことはあるであろう毛利元就の登場。
毛利元就により追い詰められた大内義長。
その続きを紹介します。
豊後でクーデター
大内義隆の仇を討つため、クーデターを起こした毛利元就。
そのころ豊後でもクーデターが起こっていました。
弘治2年(1556)5月。
反乱者「差別反対ー!平等にしろー!」
府内(大分市)で優遇されている家臣に対して、不満を持つ家臣の反乱者がクーデターを起こしました。
その勢いは豊後内に留まらず、豊前・筑前の反大友派と通じて、宗麟暗殺を計画しました。
これには南関城督の小原鑑元(おばる あきもと)、本庄新左衛門尉(ほんじょうしんざえもんのじょう)、中村新兵衛尉(なかむらしんべえのじょう)、賀来紀伊守(かくきいのかみ)など。
有力者の他、その筆頭ともいうべき佐伯惟教(さえき これのり)などがクーデターに加わりました。
宗麟「ちとコレはやべーな…ドロン!」
宗麟はこの暴動に対して府内から脱出。
臼杵にある丹生島城(にうじまじょう)に避難しました。
反乱者「へたれキリスタンめが逃げおったわいwww」
家臣「ダメですよーボスを裏切ったら」
その後、反乱者たちは大友の軍勢によって討たれ、全員滅ぼされてしまいました。
佐伯「大友軍めっちゃ強ぇー、こちらもドロン!」
佐伯惟教は城を捨て、四国の伊予へ逃れました。
このクーデターに関してはフロイスの『日本史』に本庄(反乱者)と田北(家臣)との争いが事件の発端になったと記されています。
またベルショール・ヌネスはこのクーデターについて、宗麟は火と武器を使い、反乱者を攻め13人の反乱者の家を焼き、家族もろとも殺したとの記録を残しています。
大友宗麟を滅ぼそうとしたこのクーデターですが、かえって宗麟側を結束させ、態勢を固めさせることとなりました。
宗麟が避難した丹生島城はのちに本格的な居城とし、府内から移りました。
しかし、弘治3年(1557)。
宗麟滞在中に火事になったとの記録が残されています。
義長への攻撃再開
その頃、毛利元就は周防国内の一揆を収めると、大内義長への攻撃を開始します。
元就は義長配下の大内軍を攻め破り、弘治3年(1557)4月3日、義長を長府(下関市)の長福寺に追い詰め、自害させます。
義長は元就から自殺に追い込まれるまで、豊後の兄・宗麟に援軍を求めていました。
しかし、宗麟はこれに全く応じませんでした。
弟を見殺しにしたのです。
大友宗麟と毛利元就
なぜ、大友宗麟は実の弟である義長を助けなかったのか。
それは大友宗麟と毛利元就は密約を結んでいたからです。
元就「宗麟さん、実の弟ですがボスの仇です。目をつぶってくれますか?」
宗麟「は?弟を助けない兄なんておらんでしょうが?」
宗麟「弟に手出したら許さんけん」
元就「さすが九州男児!しかもクーデターを抑えて飛ぶ鳥を落とす勢いだとか?」
宗麟「は?///余裕だったし!///これからイケイケどんどんだし!!」
元就「九州に私の領土があるんですが、私風情には勿体無いので、どうですか?」
宗麟「え!?くれんの?」
元就「もちろんですよ!その代わり、ね?弟さんのこと」
宗麟「スマン!弟!このことは内密でヨロ!」
『萩藩閥閲録』によると、すでに元就は家臣である小寺元武を豊後に送り、大友宗麟との間にお互い海峡(関門海峡)を挟んで支配権を認め合い、手出しをしないという不可侵条約を結んだと記されています。
つまり、宗麟は周防・長門の毛利支配圏内には手を出さない。
元就もまた、大友の支配権を認めて北九州には進出しないという両者の密約です。
義長の援軍要請を受け入れ、兵を山口県に送り込むとこの密約を破ることになるので、宗麟は元就との約束を守って弟である義長へ援軍を送りませんでした。
これは宗麟が元就の領土であった、豊前・筑前2国を得ることが条件だったと思われます。
つづく
今回は豊後で起こったクーデターと、その後の大友宗麟と毛利元就との関係を紹介しました。
しかし、毛利元就とは歴史を勉強し始めた私ですら名前を知っている人物。
自分のボスの仇をとるために豊前・筑前の領土を渡して終わるのでしょうか?
続きはこちら。
→【大友宗麟】毛利元就の裏切り!しかし宗麟の腕っぷしで返り討ちへ!
つづく!
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