大友宗麟VS毛利元就|豊前・筑前をめぐる戦いとは?

記事の内容

豊前・筑前をめぐる、大友宗麟と毛利元就の戦いを紹介します!

  • 宗麟の領土になった豊前・筑前
  • 豊前・筑前の城主や武将が反逆
  • 反逆は元就の指示
  • 宗麟は武将らの反逆をおさえる
  • 元就が条約をやぶり、北九州に進行
  • 宗麟は進行をおさえるが、元就にスキをつかれる

脂肪が取れない、トリぞーです。

この記事は、大友宗麟の歴史に興味がある方に向けた内容です。

  • 宗麟と元就の不可侵条約ってどうなったの?
  • どっちが勝ったの?
  • 戦いのその後は?

これらの疑問に応えます。

前回は大友宗麟と毛利元就が、お互いの領土に手を出さないという条約を結んだところまで紹介しました。

大友宗麟は実の弟をすて、毛利元就と結束します。

しかし、そのまま仲良くいくとは限りません。

世は戦乱ですからね

目次

豊前・筑前

毛利元就との不可侵条約にて、大友宗麟は豊前・筑前を領土としました。

しかし、豊前・筑前の城主や武将たちは納得いきません。

武将

元就のオッサン、オレたちを捨てたって

武将

そんでもって、つぎのボスは大友だって

あんなハゲの言うことなんか聞くか!

独立だ!

豊前・肥前では、大内政権崩壊の混乱を利用し、

宗麟の支配からのがれ、独立をはかる者があらわれました

しかし独立のウラには、不可侵条約を結んだはずの毛利元就がいたのです。

裏切りが当たり前の時代ですね

元就の手腕

元就の心境はこんな感じ。

ハゲとの約束なんか意味ねーし

元就にとって大友宗麟との約束など、戦略上の一時的な口約束にすぎません。

乱世の辛酸をなめつくし、人心の表裏を見ぬくほど経験をつんだ元就。

20代の宗麟とでは、政治手腕においても、格段の差がありました。

元就は防長(山口)の支配者になると、反大友派と見られる、

豊前・筑前の武将たちに、密かに手をまわして味方につけていました。

まじゴメン!

敵をダマすには味方からねw

武将

笑えないっすよ!

頼んますよ!

元就の知力VS宗麟の腕力

元就の根まわしにより、大友支配を嫌う有力武将たちは立ちあがります。

反大友派の武将

山田隆朝(やまだたかとも)豊前

仲八屋宗種(なかはちやむねたね)豊前

秋月文種(あきづきふみたね)筑前

筑紫惟門(ちくしこれかど)筑前

ハゲの言うことなんかムシだね

独立じゃー!

宗麟

なんだ?急にしゃしゃりやがって!

条約あるから手伝えないよー

弘治3年5月18日、山田隆朝・仲八屋宗種らは、

大友軍の城井左馬助(きいさまのすけ)の城を攻め、激戦となります。

しかし、佐田隆居(さたたかより)らが大友軍の助けに入り、

山田らはうまく攻めることができません。

佐田は安心院興生(あじむおきなり)とともに、宗麟のために一生懸命に働きました。

宗麟

おい佐田!山田を仲間にしろ!

え?いま戦ってるのに…

宗麟

お前んとこの悪ガキを人質にだせ!

そんな…

宗麟は佐田にたいして、山田隆朝へ人質をさしだすよう指示。

佐田は宗麟の命令にしたがうよう説得しました。

しかし、山田はこれを拒否。

山田の態度に、宗麟は国東の武将を出陣させます。

国東の武将

田原親宏(たわらちかひろ)

田原親賢(たわらちかかた)

木付鎮秀(きつきしげひで)

弘治3年(1557)6月1日、田原、木付らが妙見岳城(宇佐)を無血開城させ入城。

妙見岳城は、豊前における大友氏の軍事拠点となり、重要な城となります。

同6月18日、大友方の広津城(福岡県吉富町)に山田らの軍勢がおしよせ、大友軍と戦いました。

しかし、山田らは敗れ、300人ほどの死傷者をだして撤退

大友軍は手をゆるめません。

大友軍は田原親宏を大将として、山田城を攻めおとします。

残党退治がおこなわれ、山田隆朝の息子をはじめとした800人以上が討たれました。

大友軍の攻撃はつづきます。

7月4日、秋月方の馬ケ岳城を攻め、秋月の将兵100人以上を討ちとり豊前一帯を制圧。

筑前でも秋月文種、筑紫惟門、原田隆種らも大友軍に攻められ、

文種は討死、惟門は降伏して反乱は鎮圧されました。

クソが!あの脳筋ヤロー!

毛利派の武将が次々と敗れていったのです。

豊前も筑前もハゲのものか…

せめて北九州だけでも

元就は不可侵条約をやぶり、北九州へ攻めこみます。

宗麟

え?え?

宗麟

条約あるだろがゴラァぁぁ!

弟を見殺しにしてまでも、元就との不可侵条約を守った宗麟。

元就の北九州進出は許しがたい違反であり、汚いやり方に激怒。

マックスにキレた宗麟は、元就の北九州進出を阻止したのです。

元就の北九州攻めを抑えると、大友の支配体制はさらに強化され、

宗麟は豊前・筑前の両国を支配しました

しかし、これで引きさがる元就ではありません。

なおも北九州奪回をはかり、永禄2年(1559)12月、

大友守備兵のスキをついて門司城を奪取、北九州への足がかりをつくりました。

まとめ

今回は大友宗麟と毛利元就の戦いを紹介しました。

  • 不可侵条約により、元就の領土(豊前・筑前)は宗麟のものに
  • 元就の指示で豊前・筑前の武将たちが宗麟に反逆
  • 宗麟は武将たちの反逆を鎮圧
  • 元就は北九州だけどもと進行
  • しかし、宗麟の腕力に敗れてしまう

元就は根まわしにより、不可侵条約下でも九州を攻めに入りました。

しかし、若い大友宗麟の腕っぷしに敗れてしまいます。

次回はさらなる宗麟の活躍を紹介したいと思います。

つづく!

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