長崎を作った大村純忠の最期とは?純忠の試練の実際

紙に切り抜かれた十字架
記事の内容

大村純忠の生涯を3回にわけて、分かりやすく紹介します!

  • ポルトガル貿易の再開にむけて、長崎をつくる
  • 三城七騎籠は、純忠VS後藤貴明ひきりるズッコケ3人組
  • 龍造寺に敗れ、支配をうける。
  • 沖田畷の戦いにより、大村に復帰
  • 病により、最期をむかえる

こんにちは、トリぞーです。

前回は大村純忠が日本初のキリシタン大名になり、クーデターが起きたところまで紹介しました。

この記事は大村純忠(すみただ)の歴史に興味がある方、分かりやすく学びたい方に向けた内容です。

  • 長崎の街ってダレが、なんで作ったの?
  • 三城七騎籠ってなに?
  • 佐賀の龍造寺との関係は?
  • 大村純忠の最期は?

これらの疑問にストーリー風な内容をくわえて、分かりやすく応えます。

今回で大村純忠の歴史記事はおわりです

目次

クーデターからの復興開始

日本の歴史にある城

永禄7年(1564)純忠は三城という城をたてます。

武雄の貴明(たかあきら)は純忠への復讐をあきらめません。

平戸の松浦隆信(たかのぶ)の次男を養子にして力を強め、ひつこく純忠の滅亡をねらっていました。

三城は貴明に対抗するために建設されたのです

純忠は混乱した横瀬浦にかわって、大村領の福田浦で貿易を再開します。

福田浦の領主は純忠の有力な武将であり、ジョーチンと称するキリシタン。

2人は福田浦をつうじて親交をふかめ、福田浦を第2の横瀬浦にしようとガンバリます。

純忠の貿易再開で、またしても貿易を失った松浦隆信は激オコ

隆信は福田浦に襲撃をかけます。

しかし、純忠がポルトガル人と協力して隆信を返りうち。

この事件で、いっそうポルトガルと純忠は仲を深めるのです。

福田浦で貿易が再開されますが、福田浦は外海に面しており風が強く、港としては適していませんでした。

そこで、ポルトガルは長崎に港をつくることを考えます。

しかし、純忠はこれを拒否。

敵対する西郷氏や深堀氏からの攻撃を恐れていたのです。

ポルトガル「ちっ、ピヨってんじゃねーよ

ポルトガル「ブラザー、説得してクレメンス

義貞「はぁ…

ポルトガルは純忠を説得しようと、兄の義貞(よしさだ)に頼みます。

義貞は気弱な性格でしたが、純忠は兄をしたっていました。

純忠「わかりました、お兄たま

長崎の領主、長崎甚左衛門純景(すみかげ)はベルナルドというキリシタン。

妻は純忠の娘でした。

純景の協力のもと、元亀元年(1570)純忠は長崎を開港し、都市計画をおこないます

長崎は海につづく長い岬があり、外敵への防御にうってつけ。

ドイツの要塞都市、ローデンベルグハイデルベルグといった感じです。

純忠は長崎港と六ヶ町をつくり、新しい長崎の街が誕生したのです

長崎港には多くのポルトガル商船が入港し、街はにぎわい急速に人口が増えていきました。

三城七騎籠

大砲を持った兵隊による攻撃

天正3年(1575)以降、肥前の統一を目指す、佐賀の龍造寺隆信(たかのぶ)から圧力をかけられます。

また、ポルトガル貿易を独占する純忠にたいして、貴明をはじめとした松浦氏、西郷氏、深堀氏との対立も激化しました。

後藤貴明はこりずに出陣のチャンスをねらいます。

元亀3年(1572)大村の内通者を利用して、諫早の西郷純堯(すみたか)、松浦隆信らと協力。

1,500人の兵をつれ、三城を攻撃します。

大村家の家臣の多くは逃げだし、純忠は残った7人の家臣と戦うしかありません。

三城には女や子が残っており、ヤリや長刀、旗を持たせて大勢いるように装いました。

隆信は東彼杵の千綿浜から攻めはじめます。

大村家の女たちは灰やヌカ、砂を投げて抵抗。

隆信「なに?その攻撃

隆信「カワユスwww

松浦軍「あ、でも、地味にウザい…

大村婦人部の攻撃に、松浦軍はひるみます。

そこに大村軍が弓矢、鉄砲で攻撃。

松浦軍は退散してしまいました

一方、後藤貴明はというと。

後藤軍は三城の山手から攻め込もうと計画していました。

貴明「あれ?味方少なくない?

大村側にいた内通者がウラ切り、なかなか攻撃ができません

そのころ、西郷軍はというと。

西郷純堯は大手門の本堂川から攻めこもうと計画していました。

純堯「あれ?内通者と待ちあわせしてるのに…

内通者「働いたら負け!オレたち自宅警備員!

こちらの内通者もウラ切り、家に引きこもっていました

ズッコケ3人組ですが、純忠も味方が少なく、ピンチには変わりありません。

純忠「も~負けでやんす

純忠「とりあえず、カルアミルク1つ

純忠があきらめて、ヤケ酒をあおろうとしていた頃。

又助「せめて大将首でも取ってやるわい!

波佐見の冨永又助(またすけ)が、勇敢にも1人で西郷軍に入りこみます。

又助は西郷軍の敵将・尾和谷軍兵衛を切り、重傷をおわせました。

西郷軍は大混乱、この間に又助は脱出し、純忠のところへ向かいます。

純忠「又助タソ~!

又助の活躍に、純忠は感激。

さらに、三城に近づけなかった大村軍も集まりはじめ、

後藤軍、松浦軍、西郷軍のすべてが撤退していきました

この事件を三城七騎籠といいます。

純忠、急に出家

川で修行をする僧侶

天正2年(1574)純忠は日本副管区長である、ガスパル・コエリヨと会談。

コエリヨのつよい勧誘にしたがい、家臣や住民すべてをキリシタンに改宗させます

かなり横暴なやり方、これには事情がありました。

日本初のキリシタン大名である、大村純忠。

なんと急に出家し、理専(りせん)と名のりはじめたのです。

宣教師たちも開いた口がふさがらない。

国主がすることなので、出家には完全スルーを決めこみました。

なぜ、キリシタンの純忠が出家したのか?

これにはクーデターのときに助けてくれた、金泉寺の僧侶のつよい勧めがありました。

純忠「なんだか下げぽよ~

僧侶「頭マルめなっせ、キレイにマルめなっせ

純忠は大村家に養子にきてから、ずっとまわりは敵だらけ

さすがに病んで出家したと言われています。

純忠の出家に対して、コエリヨは激怒

コエリヨ「イエスさまと仏さま、どっちがエモい?

純忠「ほと…

コエリヨ「ア゛ア゛アぁぁん゛!?

純忠「イエスさまです…

純忠は仏教との絶縁を決意します。

領内の寺社仏閣を破壊、全員のキリスト教への改宗、僧侶の殺害をはじめます

純忠「きえぇぇ!

純忠「イエスたまの名の下にいぃぃ!

したがわない者は、国外へ追放。

領内は大村家始まって以来の地獄と化しました。

地獄は純忠の命の恩人、金泉寺の僧侶にまでおよびます。

純忠「誰がクリリンじゃー!

僧侶「ちょ…え…

純忠「ゼウスたまは永遠なりー!Death!

金泉寺の僧侶は純忠から襲われるものの、なんとか脱出して川棚へ。

山をこえて佐賀県嬉野市に流れつき、一生をおえました。

命の恩人でさえ殺そうとする純忠。

大村にキリスト教国をつくるため容赦なく反逆者を殺し、徹底的に弾圧と破壊をくり返し、

冷酷非常な権力者となってしまいました

龍造寺の傘下に

傘を手にした人

天正3年(1575)藤津郡(嬉野、太良)に龍造寺隆信(たかのぶ)が侵攻。

純忠は兵をおくりますが、負けてしまいます

龍造寺は勢いそのままに、

後藤貴明、松浦鎮信(しげのぶ)、渋江公師(しぶえきんもろ)らへ出兵を命じ、三方から大村を攻めました。

龍造寺は萱瀬川の対岸、朝追岳にすすみ、大村家の菅無田城をかこみます。

大村家は一瀬半左衛門以下の武士、農民300人で城に立てこもりますが、城は落ちてしまいました。

龍造寺「よー働いた!帰って一杯やんべ!

大村家「きえぇぇぇー!

城を落とし、帰ろうとした龍造寺軍に大村家は奇襲をしかけます。

奇襲をうけた龍造寺軍は、諫早の尾和谷へ逃げました。

しかし、肥前を統一しようとする龍造寺の勢いに負け、純忠はとうとう降参したのです

降参した純忠は、龍造寺から佐賀へ来るように命じられます。

佐賀では純忠に服従を誓わせる儀式(降礼)の準備がすすめられていました。

呼びだしを断れば、反逆者として殺されてしまいます。

大村家の家臣たちは純忠の危険を考え、会議をひらきます。

家臣「いくも地獄、いかぬも地獄…

純忠「どうせ死ぬらな行くしかないナリ

純忠「あの熊五郎…もしもの時は返りうちナリ

純忠は覚悟をきめ、佐賀へ。

しかし、龍造寺(肥前の熊)は純忠をもてなし、酒盛りまでして大村に帰しました。

無事帰ってきた純忠に、家臣たちは奇跡とうたい、喜びます。

このもてなしは、筑後の蒲池氏を攻めるために仕組まれた、龍造寺の偽装工作だったのです

純忠、屈辱の左遷

落胆する男性

龍造寺の魔の手から無事逃れた純忠ですが、

偽造工作だったため、大村の領主権を奪われてしまいます。

さらに、純忠の子である喜前(よしあき)を人質として佐賀に送ります。

龍造寺「アンちゃん1人じゃ寂しかろう?

喜前を返すかわりに、次男と三男を佐賀へ送るように命じました。

龍造寺「なーんちゃって!

しかし、龍造寺は約束をやぶり、親族までも佐賀へ送るようにと伝えます。

龍造寺「そんで、おまえはアッチ

純忠は、波佐見のド田舎に行くように命じられました。

肥前の熊には逆らえない純忠。

城をでる準備をしているとき、肥後で龍造寺にたいする反乱がおきます。

龍造寺は肥後に向かわなくてはいけなくなり、純忠の左遷は一時中止。

純忠「神風ナリ!今のうちに作戦を!

龍造寺「てってれ~、どうにかなると思った?w

龍造寺は肥後の反乱をソッコーおさめ、大村に戻ったのです。

龍造寺「いまの気持ちは?助かると思った?w

あまりにも屈辱的なやられ方。

恥ずかしさのあまり街中を通らず、遠回りして波佐見に向かいました。

龍造寺は空席となった三城に、人質の喜前を座らせます。

喜前は龍造寺の家臣に管理され、ロボットのような存在。

大村に入った龍造寺軍は、キリシタンの殺害や金品の強奪などをおこないました。

純忠、死す

紙に切り抜かれた十字架

龍造寺はさらに、純忠の甥であるキリシタン大名・有馬晴信(はるのぶ)を攻めます。

これに対して、晴信は薩摩の島津家に助けをもとめました

龍造寺との戦いに、有馬・島津軍が勝利。(沖田畷の戦い

龍造寺は首を切られ、享年56才でこの世をさります。

龍造寺の支配からとかれた純忠は、大村に復帰します

その後も相かわらず一揆や謀反が頻発しますが、龍造寺からの支配と比べればなんのその。

イケイケで解決していきました。

しかし、純忠の時代もとうとう終わりを迎えます。

病にかかってしまったのです。

純忠は喜前に家督をゆずり、坂口館で静養。

病状は思わしくなく、最後は肺をわずらい、喉頭結核も併発。

純忠は坂口館にで、55才の生涯をおえました

葬儀には5人のキリスト教司祭、数人の修道士、神学校の少年たちが出向き、盛大に行われました。

純忠の遺体はキリシタン寺の宝性寺教会に葬られ、

後の草場寺、さらに本経寺に改葬されていますが、お墓は不明となっています。

まとめ

今回は大村純忠の長崎開港から、生涯を終えるまでを紹介しました。

  • 長崎の街は、ポルトガル貿易のため大村純忠がつくった。
  • 出家するも、コエリヨにより独裁者へ。
  • 龍造寺隆信の支配をうける。
  • 甥の有馬晴信が沖田畷の戦いで勝利し、大村に復帰。
  • 病により、55才で最期をむかえた。

大村純忠の生涯を3回に分けて紹介しましたが、今回で一旦終わりとなります。

引きつづき面白い資料を見つけ次第、紹介したいと思います。

ありがとうございました!

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