長崎を作った大村純忠の最期とは?純忠の試練の実際

紙に切り抜かれた十字架 長崎
記事の内容

・大村純忠の生涯を分かりやすく紹介します。

・長崎は純忠がつくった?

・純忠の試練

・最後は病にかかる

こんにちは、トリぞーです。

前回に引き続き、大村純忠の生涯を紹介します。

前回までの話↓

純忠、復興開始

日本の歴史にある城

 

永禄7年(1564)純忠は三城という城を建てます。

武雄の貴明(たかあきら)は純忠への復讐を諦めておらず、平戸の松浦隆信の次男を養子にして連携を強め、執拗に純忠の滅亡を狙っていました。

三城は貴明の行動に対抗するために建設されたのです

 

純忠は混乱した横瀬浦に代わって、大村領の福田浦で貿易を再開します。

福田浦の領主は純忠の有力な武将であり、ジョーチンと称するキリシタン。

2人は福田浦を介して親交を深め、福田浦を第2の横瀬浦にしようと頑張ります。

 

これにより、再び貿易の機会を失った松浦隆信は激オコ

隆信は福田浦に襲撃をかけるが、純忠がポルトガル人と協力して隆信を返り討ち。

 

 

この事件で、より一層ポルトガル側と純忠は中を深めるのです。

 

福田浦で貿易が再開されますが、福田浦は外海に面しており風が強く、港としては適していませんでした。

そこでポルトガル側は長崎に港を開港することを考えます。

しかし、純忠はこれを拒否。

敵対する西郷氏や深堀氏からの攻撃を恐れていたのです。

 

ポルトガル「チッ、ピヨッテンジャネーヨ

ポルトガル「ブラザー、説得シテクダサイ

義貞「はぁ…

ポルトガル側は純忠を説得しようと、兄の義貞(よしさだ)に頼みます。

義貞は気弱な性格でしたが、純忠は兄に従順でした。

純忠「分かりました、お兄たま

 

長崎の領主、長崎甚左衛門純景(すみかげ)はベルナルドというキリスト教名を持ち、妻は純忠の娘。

純景の協力のもと、元亀元年(1570)純忠は長崎を開港し、翌2年に都市計画を行います。

長崎は海に続く長い岬があり、外敵への防御に適していました。

それは、ドイツの要塞都市であるローデンベルグハイデルベルグといった感じ。

 

純忠は長崎開港と六ヶ町の建設し、新しい長崎の街が誕生したのです

長崎港には多くのポルトガル商船が入港し、街は賑わい急速に人口が増えていきました。

 

 

三城七騎籠

大砲を持った兵隊による攻撃

 

天正3年(1575)以降、肥前の統一を目指す佐賀の龍造寺隆信(たかのぶ)から圧力をかけられます。

また、ポルトガル貿易を独占する純忠に対して、武雄の貴明をはじめとした松浦氏、西郷氏、深堀氏との対立も激化して行くのです。

 

特に貴明はこりずに出陣の機会を狙っていました。

元亀3年(1572)大村側の内通者を利用して諫早の西郷純堯(すみたか)、平戸の松浦隆信らと協力して1,500人の兵隊をつれ三城を攻撃。

大村家の家臣の多くは逃げだし、純忠は残った7人の家臣と戦うしかありません。

三城には女や子が残っており、ヤリや長刀、旗を持たせて大勢いるように装いました。

 

松浦隆信は東彼杵の千綿浜から攻めはじめます。

大村家の女たちは灰やヌカ、砂を投げて抵抗。

隆信「なにその攻撃?wカワユスww」 

松浦軍「あ、でも、地味にウザいかも…

 

大村婦人部の攻撃に松浦軍は怯みます。

そこに大村軍が弓矢、鉄砲で攻撃。

松浦軍は退散に追いやられました

 

一方、後藤貴明軍。

後藤軍は三城の山手から攻め込もうと計画していました。

貴明「あれ?味方が少ない…

大村側にいた内通者が裏切り、なかなか攻撃に移せません

 

その頃の西郷純堯軍。

西郷純堯は大手門の本堂川から攻めこもうと計画していました。

純堯「あれ?内通者と待ち合わせしてるのに…

内通者「働いたら負け!オレたち自宅警備員!

こちらの内通者も裏切り、自宅に引きこもっていました

 

こんなズッコケ3人組ですが、純忠も味方が少なくピンチには変わりありません。

純忠「も〜負けでやんす

純忠「とりあえず、カルアミルク1つ

純忠は諦めて焼け酒をあおろうとしていた頃。

 

又助「せめて大将首でも取ってやるわい!

波佐見の冨永又助(またすけ)が勇敢にも1人で西郷軍に入り込みます。

又助は西郷軍の敵将、尾和谷軍兵衛を切り重傷を負わせました。

西郷軍は大混乱、この間に又助は脱出し純忠のところへ向かいます。

 

純忠「又助タソ〜!

又助の活躍に純忠は感激。

そうこうしてる内に三城に近づけなかった大村軍も集まりはじめ、後藤軍、松浦軍、西郷軍のすべてが撤退していきました

この事件は三城七騎籠といわれています。

 

 

純忠、急に出家

川で修行をする僧侶

 

天正2年(1574)純忠は日本副管区長であるガスパル・コエリヨと会談し、コエリヨの強い勧誘に従って、家臣や領内の住民らすべてをキリシタンに改宗させます

かなり横暴なやり方、これには経緯がありました。

 

日本初のキリシタン大名である、大村純忠。

なんと急に出家し、理専(りせん)と名のりはじめたのです。

宣教師たちも開いた口がふさがらない。

国主がすることなので、出家には完全スルーを決めこみました。

 

なぜ、キリシタンの純忠が急に出家したのか?

これにはクーデターのときに助けてくれた、金泉寺の僧侶の強い勧めがありました。

純忠「なんだか下げぽよ〜

僧侶「頭丸めなっせ、キレイに丸なっせ

純忠は大村家に養子に来てから、ずっと周りは敵だらけ

さすがに病んで出家したと言われています。

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しかし、純忠の出家に対してコエリヨは激怒

コエリヨ「イエス様ト仏様、どっちがエモい?

純忠「ほと…

コエリヨ「ア゛ア゛ァァン!?ドッチ!?

純忠「イエス様です…

 

純忠は仏教との絶縁を決意します。

そして領内の寺社仏閣を破壊、全員のキリスト教への改宗、僧侶の殺害を開始

純忠「キエェェェ!イエスたまの名の下にイィぃ!!

従わない者は国外へ追放しました。

 

領内は大村家始まって以来の地獄と化しました。

地獄は命の恩人である、金泉寺の僧侶にまで及びます。

純忠「誰がクリリンじゃー!

僧侶「ちょ、え…

純忠「ゼウスたまは永遠なりー!Death!

 

金泉寺の僧侶は純忠から襲われるものの、なんとか脱出して川棚に着岸。

山を越えて佐賀県嬉野市に流れつき、一生を終えました。

命の恩人でさえ殺そうとする純忠は、大村にキリスト教国を作るため容赦なく反逆者を殺し、徹底的に弾圧と破壊を繰り返して冷酷非常な権力者となってしまいました。

 

 

龍造寺の傘下に

傘を手にした人

 

天正3年(1575)藤津郡(嬉野、太良)に龍造寺隆信(たかのぶ)が侵攻。

純忠は兵を送りますが、負けてしまいます

 

龍造寺は勢いそのままに、後藤貴明、松浦鎮信(しげのぶ)、渋江公師(しぶえきんもろ)らへ出兵を命じ、三方から大村を攻めました。

龍造寺は萱瀬川の対岸、朝追岳にすすみ、大村方の菅無田城を包囲。

大村方は一瀬半左衛門以下の武士、農民300人で城に立てこもりますが、城は落ちてしまいました。

 

龍造寺「よー働いたわ!帰って一杯やんべ!

大村方「キエェェェーー!

城を落とし、帰ろうとした龍造寺軍に大村方は奇襲を仕掛けます。

奇襲をうけた龍造寺軍は、諫早の尾和谷へ逃げました。

しかし、肥前を統一しようしている龍造寺の勢いに負け、純忠はとうとう降参してしまうのでした

 

降参した純忠は、龍造寺から佐賀へ来るように命じられます。

佐賀では純忠に服従を誓わせる儀式(降礼)の準備が進められていました。

呼び出しを断れば、反逆者として殺されてしまいます。

 

大村家の家臣たちは純忠の危険を考え、会議を開きます。

家臣「行くも地獄、行かぬも地獄…

純忠「どうせ死ぬなら行くしかないなり

純忠「あの熊五郎…もしもの時は返り討ちなり

 

純忠は覚悟を決め、佐賀へ。

しかし、龍造寺(肥前の熊)は純忠をもてなし、酒盛りまでして大村に帰しました。

無事帰ってきた純忠に家臣たちは奇跡と謳い、喜びます。

だが、このもてなしは筑後の蒲池氏を攻撃するために仕組まれた、龍造寺の偽造工作だったのです

 

 

純忠、屈辱の左遷

落胆する男性

 

龍造寺の魔の手から無事逃れた純忠ですが、偽造工作だったため大村の領主権を奪われてしまいます。

さらに純忠の子供である喜前(ドン・サンチョ)を人質として佐賀に送ります。

 

龍造寺「アンちゃん1人じゃ寂しかろう?

龍造寺は喜前を返す代わりに、次男と三男を佐賀へ送るように命じました。

 

龍造寺「なーんちゃって!

しかし、龍造寺は約束を破り、親族までも佐賀へ送るようにと伝えます。

 

龍造寺「そんでもって、お前はアッチ

純忠は波佐見のド田舎に行くように命じられました。

肥前の熊には逆らえない純忠。

 

純忠が城を出る準備をしているとき、肥後で龍造寺に対する反乱が起きます。

反乱により龍造寺は肥後に向かわなくてはいけなくなり、純忠の左遷は一時中止。

 

純忠「神風なり!今のうちに作戦を!

龍造寺「テッテレ〜、どうにかなると思った?w

龍造寺は肥後の反乱を素早くおさめ、大村に戻ったのです。

 

龍造寺「今の気持ちは?助かると思った?w

あまりにも屈辱的なやられ方で、純忠は波佐見に向かう際、恥ずかしさのあまり街中を通らず迂回して大村を後にしました。

 

空席となった三城に龍造寺は、人質となっていた喜前を座らせました。

しかし、喜前は龍造寺の家臣に管理されロボットのような存在。

大村に入った龍造寺軍はキリシタンの殺害や金品の強奪などを行ったのです。

 

 

純忠、死す

紙に切り抜かれた十字架

 

龍造寺はさらに純忠の甥であるキリシタン大名、有馬晴信(はるのぶ)にも攻撃を仕掛けます。

これに対して晴信は薩摩名家、島津家に助けを求めました

この戦いに有馬・島津軍が勝利。(沖田畷の戦い

龍造寺は首を切られてしまい、享年56才でこの世を去ります。

 

龍造寺の支配から解放された純忠は見事大村に復活を果たします

その後も相変わらず領内では一揆や謀反が頻発しますが、龍造寺からの支配と比べればなんのその。

イケイケで解決していきました。

 

しかし、純忠の時代もとうとう終わりを迎えます。

病にかかってしまったのです。

 

純忠は喜前に家督をゆずり、坂口館で静養。

しかし、病状は思わしくなく、最後は肺を患い、喉頭結核も併発。

純忠は坂口館にて、55才の生涯を終えました

 

5人のキリスト教司祭、数人の修道士、神学校の少年たちが大村に出向き、盛大な葬儀が行われました。

純忠の遺体はキリシタン寺の宝性寺教会に葬られ、後の草場寺、さらに本経寺に改葬されていますが、お墓は不明となっています。

 

 

まとめ

今回は大村純忠の最期までを紹介しました。

まとめ

・長崎の街は大村純忠がつくった。

・急に出家するも、宣教師により地獄の独裁者へ。

・佐賀の龍造寺隆信の傘下になる。

・沖田畷の戦いで勝利し、復帰。

・55才で病により最期を遂げる。

大村純忠の生涯を3回に分けて紹介しましたが、今回で一旦終わりとなります。

引き続き面白い資料を見つけ次第、紹介したいと思います。

ありがとうございました。

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