大村純忠の歴史をわかりやすく解説します!
- 大村純忠の出身は南島原市
- 大村に行くも、よそ者あつかい
- ポルトガル船を受け入れて、貿易開始
こんにちは、トリぞーです。
日本で最初のキリシタン大名と言われる、大村家当主・大村純忠。
純忠の生涯を、順番に詳しく紹介します。
- マイナーだから詳しく知らない…
- 出身は大村じゃないの?
- キリシタンとの貿易を知りたい!
キリシタンや地元の歴史を知りたい方、学校の勉強で仕方なくって方にも分かりやすく紹介していますよ。

今回は誕生から、ポルトガルとの貿易開始まで
大村純忠とは?

大村純忠(おおむらすみただ)とは1550〜1584年の間に、現在の長崎県大村市を中心に東・西彼杵、大村湾外一帯を支配した戦国武将です。
長崎の街をつくった人物としても、歴史に名が残っています。
大村純忠を語るに欠かせないのが、キリスト教。
永禄6年(1563)ポルトガル人宣教師から洗礼をうけ、日本で初めてのキリシタン大名となりました。
キリシタンとなった大村純忠によって、日本は大きく変化していきます。
今日の日本があるのは、大村純忠がいたからでは?と思わせてくれる。
日本史上もっとも重要かつ、マイナーな戦国大名だと感じさせる人物です。
そんな大村純忠の生涯は、波乱万丈でした。
出身は南島原市

大村純忠は天文2年(1533)現在の長崎県南島原市北有馬町にある、日野江城に生まれました。
有馬家の当主、有馬晴純(はるずみ)の次男坊。
出身は大村市ではなく、南島原市だったのです。
純忠の母が大村家の出身、大村純伊(すみこれ)の娘。
大村当主・大村純前(すみさき)の妹にあたります。
当時の力関係は大村家より、有馬家の方が上でした。
天文19年(1550)純忠が18才のときに政略として、大村家に養子として入ります。
また、弟たちもそれぞれ養子に出ています。
- 直員(なおかず)→千々石家:雲仙
- 盛(さかり) →松浦家:平戸
- 諸経(もろつね)→志岐家:天草
純忠の甥には後にキリシタン大名となる、有馬晴信(はるのぶ)がいます。
大村家でよそ者あつかい

純忠は18才で大村家に入り、リーダーとなります。
しかし、政治のスタートから大村家は不安定でした。
なぜなら、大村家当主・大村純前には長男がいたからです。
大村家のリーダーとなるはずだったのが、長男の又八郎。
又八郎「おとーたま、なんでボクがリーダーじゃないの?」
純前「すまん、又八郎…」
純忠に追いだされるようにして、又八郎は後藤家へ養子に出されます。

現在の佐賀県武雄市です
武雄で又八郎は、後藤貴明(たかあきら)と名のり、純忠に復讐しようと決意します。
大村家は3つの派閥で、バラバラ。
- 貴明をしたう派閥
- リーダーの純忠をしたう派閥
- 前当主の純前をしたう派閥
こんな状態で、政治はうまくいきません。
大村家の老臣・朝長新左衛門(しんざえもん)は大村家が落ちつくまで、純忠には隠れてほしいと提案します。
朝長「純忠さま、今は皆を刺激してはいけません」
朝長「萱瀬にある別荘でホタルでも見て、休んでください」
朝長に説得された純忠は、萱瀬にある切詰城で待機することに。
しかし、3年たっても大村家はバラバラのまま。
純忠「なんだかボキ、有馬に帰りたくなったなー」
切詰城に引きこもっていた純忠は、有馬へ帰ろうとします。
朝長「もうこ斑のガキが」
朝長「軟禁したら、オカンの乳が恋しゅうなると思ったわい!」
朝長は純忠を大村から追いだして、自分が大村家をのっ取ろうとしたのです。
このウワサを聞いた純忠はキレます。
純忠「おのれクソジジィ…」
純忠「ボキのアオハルを返せ!」
純忠は自分をしたう派閥を集めて、朝長をせめます。
すると朝長は、いちもくさんに後藤貴明(又八郎)のもとへ。
貴明「チっ…」
事件のウラには貴明の姿がありました。
貴明は父・純前の死後、純忠への憎しみから攻撃をつづけます。
貴明の他にも諫早の西郷氏、平戸の松浦氏、長崎の深堀氏が大村純忠に敵意を向けていました。
ポルトガル船を受け入れる

3年間の軟禁から解放された純忠は、大村家に戻り本格的に政治に力を入れます。
さまざまな場所の防備をすすめました。
- 大村の三城
- 波佐見の井石、内海、岳山
- 川棚の風南、歌舞多
- 東部の重、松岳
- 西部の福田、唾飲
針尾・小佐々水軍を支配下にして、海上交通にも力をいれます。
純忠「政治はいい感じだけど、しょせんは田舎でパッとしないな」
純忠「もっと儲けて、新しい武器がほしい…」
当時、平戸ではポルトガルとの貿易がすすんでおり、純忠は外国との貿易を熱望していました。
そんな時、平戸で事件がおきます。
平戸の松浦隆信(たかのぶ)がポルトガルともめて、貿易が中止となりました。
宮の前事件です。

永禄5年(1562)純忠は、横瀬浦(長崎県西海市)にポルトガ商船の貿易港をひらきます。
純忠はいろんな対応を考えました。
- 横瀬浦に大きなキリシタンの町をつくる
- ポルトガル人が安心して宿泊できるようにする
- 税金も免除する
この対応を聞いた宣教師のトルレスは、豊後よりアルメイダを大村へ派遣します。
純忠が最初に会ったポルトガル人がアルメイダでした。
横瀬浦はキリシタンの町となり、ポルトガル人も横瀬浦こそが日本最良の港、キリストの聖母の港と名付けたほどです。
横瀬浦には豊後、博多、山口、平戸、京都などから大勢の商人が訪れ、八の子島(サン・ペドロ島)に建てられた十字架を目印に入港しました。


現在の八ノ子島の写真です
つづく
今回は大村純忠の誕生からポルトガル貿易の開始までを紹介しました。
- 大村純忠は島原の有馬家出身
- 大村家には養子として入る
- 大村家では敵も多い
- 武器の新調、経済活性化のためにポルトガルと貿易をはじめる
純忠は大村家の政治を安定させるため、横瀬浦でポルトガルと貿易をはじめます。
これをきっかけに純忠は、日本初のキリシタン大名への道を進んで行くのです。
つづく!

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