島原沖田畷の戦い|龍造寺隆信の最期はあっけない?

記事の内容

沖田畷の戦いを分かりやすく紹介します!

・有馬晴信が助けを求めた国とは?

・龍造寺隆信はある事情で馬に乗れなかった?

こんにちは、トリぞーです。

 

今回は沖田畷の戦いを紹介したいと思います。

肥前の熊と恐れられていた佐賀の龍造寺隆信。

龍造寺の支配から逃れるため、キリシタン大名有馬晴信は助けを求めて戦います。

後の日本史にも影響を与えた沖田畷の戦い

スタート!

目次

有馬氏と島津氏

握手をしている男性

 

戦国時代、九州は北の龍造寺家、南の島津家という2大勢力が支配権を争っていました。

有馬家当主、有馬義貞(よしさだ)の代に、有馬家は肥前東部に進出してきた龍造寺と対立します。

永禄6年(1563)7月、百合野合戦で龍造寺勢に大敗をきして、有馬家は急激に弱体化してしまいました。

元亀2年(1571)有馬家当主であった有馬義純(よしずみ)が若くして急死、後のキリシタン大名となる弟の有馬晴信(はるのぶ)が有馬家をつぎます。

 

龍造寺の勢力は強まる一方で、天正6年(1578)正月には南高来郡の者たちまで龍造寺に寝返り、晴信は本拠地の日野江城周辺を確保するのみになりました。

晴信「あの熊ヤロー…

 

天正10年(1582)晴信は龍造寺が支配している千々石城を攻撃して、再び龍造寺と敵対することになります。

他領主「有馬がとうとう出たぞ!つづけ!

その頃、龍造寺支配下の各地で、残忍な仕打ちで権力を振るう龍造寺から離反しようとする領主が出始めました。

 

龍造寺「小童どもがー!!!

しかし、肥前の熊と呼ばれる龍造寺の勢いは凄まじく、晴信は島原半島の南高来群のみをかろうじて維持するので限界。

 

晴信「政家!親父に何とか言ってくれよ!

政家「スミマセン、お父様にはちょっと…

妹婿であり、龍造寺の息子である政家(まさいえ)は当主にもかかわらず、何事も父の命に左右される気の弱さがありました。

叔父で勇敢な大村純忠(すみただ)ですら追放されしまい、晴信は龍造寺にこれ以上逆らうことができません。

 

龍造寺に対抗できるのはもはや、薩摩国の島津しかいない。

晴信は龍造寺から逃れるために島津義弘(よしひろ)に一族の者を人質に差し出し、島津氏の傘下に入ることを決めます

晴信自ら肥後八代の島津本営に赴き数日間滞在、島津義弘に会い、弟の新八郎を人質に差し出しました。

 

龍造寺「あの南蛮狂いが、寝返ったな

龍造寺「有馬領土もワシのものだ

龍造寺は大村の地と領内のキリシタン宗団をことごとく拳中に収めた後、晴信の勢力を根絶やしにして肥前国の絶対主君になろうと決意します。

 

有馬攻めを決めた龍造寺ですが、不吉な前途を暗示する怪異現象が起こります。

天正12年(1584)2月に長崎で4晩に渡って夜8時に火柱が空に現れ、しばらくの間続いてから消えるという現象がありました。

 

陰陽師「あんた多分死ぬね

龍造寺「オカルトはムーだけにしとけよ

陰陽師たちは龍造寺に対して、有馬に行くことになれば命を落とす危険を覚悟せねばと予言しますが、龍造寺は聞く耳を持たず。

 

龍造寺「佐賀牛まいうー

そして予言は現実となるのです。

 

沖田畷の戦い

戦車を使った戦場の模型

 

天正12年3月18日、龍造寺は3万の兵を率いて竜王崎(杵島郡白石町)から出航、翌日神代海岸(雲仙市国見町)に上陸して島津・有馬軍を叩く予定でした。

龍造寺軍はまず、味方に食料や酒を運ぼうとして20隻の船を派遣しますが、有馬氏を支援するポルトガル船に捕まってしまいます。

さらに50隻の船で5,000人の兵を島原の城に入れようとしますが、島津・有馬軍の船が海上を封鎖しており上陸できません。

 

そこで龍造寺は軍を3つに分けて、1手は鍋島直茂、1手は江上家種、後藤家信・多久信鎮兄弟、1手は大将自らが軍を率いる作戦を立てます。

晴信は日野江城で2,000人の兵と籠城、臨戦態勢を整えました。

そこに有馬救援軍の大将に任命された島津家久は、薩摩の精鋭3,000人を率いて有馬に到着。

軍議の結果、龍造寺軍は三方から侵攻してくることを読み、三方防備を構え、さらに海上からの船による砲撃をもって龍造寺軍の側面をつく作戦を立てました。

 

龍造寺は晴信の本拠である日野江城に向かって侵攻を開始。

龍造寺側である大村喜前は、300人のキリシタン武士を率いて攻撃に加わりました。

大村純忠はキリシタン同士であり、親族同士の戦いに深い苦悩を抱いたでしょう。

大村勢は有馬の勝利を願い、攻撃を命令されれば玉を込めずに撃つマネだけする予定だったのです

 

天正12年(1584)3月23日、龍造寺は島原近郊に到達し、島原を一気に突破して奥地の有馬へ攻め込もうとしていました。

島津・有馬軍は合わせて6〜7千の兵、対して龍造寺軍は3万と比較にならない

龍造寺はこの戦で完全に晴信を叩き、キリスト教を壊滅させようとします。

3月24日、戦場の沖田畷において島津・有馬軍と龍造寺軍が遭遇し、激戦となりました。

これを沖田畷の戦いと言います。

 

龍造寺軍は有馬の前衛拠点である島原の森岳城をひと揉みにして、一気に日野江城に攻め込む予定でした。

龍造寺は島津・有馬の主力は、あくまで本拠地の日野江城か原城で待機しているものと予測。

ところが島原付近まで来たとき、島津の旗印が動くのを発見。

予想に反して島津、有馬軍が布陣を完了させ、待ち構えていたのです。

しかし、龍造寺軍の先陣はこれを偵察隊と思いこみ、銃撃しながら追い込んで進みました。

 

島津・有馬軍も反撃を開始。

島津・有馬軍の船から発射される二門の大砲の威力は、驚くべき効果をもたらします。

海岸を進んだ龍造寺軍の一隊はこの大砲によってかなりの損害を受け、一部は脱出しはじめました。

龍造寺軍は晴信を襲撃しようとしますが、なんと晴信はこれを撃破。

その奮闘ぶりには島津軍を驚かせました。

 

 

釣野伏(つりのぶせ)

大砲を持った兵隊による攻撃

 

有馬晴信が奮闘を見せるも、戦いは龍造寺軍優勢。

有馬軍に続き、島津軍も龍造寺軍と対峙しますが、装備と体格で互いに顔を見合わせ、死の汗を流すほど。

 

龍造寺軍は銃500丁を一斉射撃した後、槍で突入します。

島津軍には銃が少なく、龍造寺軍に3度にわたり陣内に攻め込まれた。

この悪い流れを断つべく、島津家久は兵に向けて演説します。

家久「後には海、前には敵

家久「ビビるな!薩摩の名の下…

兵「いやぁぁぁぁー!

家久「

 

演説が終わらないうちに島津軍は戦います。

ここで島津軍は得意の戦法である釣野伏を開始。

龍造寺軍を細い一本道へ誘い込み、一気に弓矢を引きます

島津軍の一斉射撃により、龍造寺軍には多くの死傷者が出て軍は総崩れとなりました。

 

 

龍造寺隆信の最期

龍造寺隆信供養等

 

パニックに陥った龍造寺軍に対して、島津軍の川上左京亮忠堅(ただたか)が敵に向かって突入します。

大将の首は取らせないと、龍造寺軍もこれに応戦。

ここで龍造寺がまさかの勘違いを起こしたのです。

 

龍造寺「おい!お前ら落ち着け!

龍造寺「ワシの前でケンカするとは何事じゃ!

川上左京亮忠堅と龍造寺軍との戦いを味方同士のケンカと勘違い。

これにより川上左京亮忠堅の侵攻を止めることができず、龍造寺軍は撤退しますが、大将である龍造寺隆信は逃げ遅れてしまします。

龍造寺「待てお前ら!

龍造寺「ワシを置いていくな!

 

肥前の熊と恐れられている龍造寺隆信、その実態は超肥満体型のオッサン

馬に乗ることができず、戦場でも家来が担ぐカゴで移動していました

 

龍造寺軍撤退により、家来のカゴ担ぎが逃亡。

逃げ遅れた龍造寺は川上左京亮忠堅により首を切られます。

龍造寺のあっけない最期、56才で亡くなり首は薩摩に送られました。

 

龍造寺軍は2,000人の死者と3,000人の負傷者、重臣も討ち取られました。

島津軍は死者250人、島津・有馬軍の完全勝利。

龍造寺軍だった鍋島直茂は戦場から脱出し、船を求めて柳川に帰りついたとされ、この時直茂が戦死していたら、後の佐賀藩は成立していないだろうと言われています。

 

 

戦いの後

階段を駆け上る外国の少女

 

龍造寺を討ち取った吉報は夜10時には有馬城下にもたらされました。

鐘が打ち鳴らされ、人々は熱狂します。

キリシタン絶滅を図っていた龍造寺の死は、彼の迫害に苦しんでいた大村、有馬領内の全キリシタンの大きな喜びとなって手放しの熱狂ぶりを示しました。

大村善前ら大村勢は龍造寺のあっけない死によって解放され、島原城にいた大村勢も島津軍の危害も受けず全員大村に帰還することができました。

 

有馬晴信にとって沖田畷の戦いは、島津の手を借りて宿怨の龍造寺隆信を討つことができた記念すべき戦い

異教徒を嫌っていた龍造寺を討ったことで、キリシタンにっても暗闇の中から光を見出した復活戦でした。

島津軍は龍造寺を撃退し、その勢いは巨大となって九州一の実力となったのでした。

 

沖田畷の戦いの場は現在、長崎県島原市に沖田畷古戦場跡として保存されています。

 

まとめ

今回は沖田畷の戦いについて紹介しました。

まとめ

・有馬晴信が龍造寺隆信を倒すべく、薩摩の島津家に助けを求める。

・龍造寺氏と島津氏は九州の支配を争う関係。

・島原の沖田畷で両者がぶつかる。

・龍造寺隆信のあっけない最期により、島津有馬軍の勝利。

肥前の熊と恐れられていた龍造寺隆信は実態は、馬にも乗れないメタボのオッサンだったんですね。

沖田畷の戦いにより、島津氏が九州を支配して後の明治維新なんかにもつながっていったのがいい。

日本の歴史の裏にはマイナーな地方の歴史が潜んでいることが面白いですね。

ありがとうございました!

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この記事を書いた人

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