花見って最高、トリぞーです。
那珂川八十八ヶ所を調べ始めて数ヶ月が経ちましたが、なかなか先に進めません。
そんな中、太宰府市図書館である資料を見つけました。
『那珂川町の歴史探訪』
著者は川崎 幹二さん。
那珂川町郷土史研究会長をされていた方です。
この本の中で田中 嘉平さんの紹介がありました。
何を隠そう、この田中嘉平こそが那珂川八十八ヶ所を作った方です!!
田中 嘉平
田中嘉平とは弘化3年(1845)に五ケ山に生まれ、昭和2年(1927)、81歳で当地に没されています。
田中嘉平の性格は情けに厚く誠実で、自ら人の上に立つことはなかったと言われています。
しかし、そんな彼だからこそ、明治5年 田中嘉平、当時27歳の若さで五ケ山の保長に命じられました。
彼は以後、37年間も公職にあたり地域のために働いてきました。
村の振興に力を尽くして釣垂道路を作り、五ケ山尋常小学校の創設、木炭の生産など、その努力や事蹟は誠に大きいものがあったと言われています。
供養墓
田中嘉平の供養墓は南畑ダム堤の国道385号線沿いにあります。
しかし、彼のお墓は元々、南畑ダムの湖底となった位置にありました。
南畑ダムは昭和35年(1960)4月に起工されていますが、その際に関係者が県に申請し、前もって現在の場所に移築されました。
現在は供養墓の横に那珂川八十八ヶ所 41番礼所があります。
那珂川八十八ヶ所 設立
明治13年、当時45歳の田中嘉平は那珂川流域の南畑村、岩戸村、安徳村の山辺の地に八十八ヶ所の霊所を設け、巡礼を始めました。
しかし、当時は彼に同調する者は少なく後を継いで参拝する者はいなかったと言われています。
そのため昭和2年に彼が亡くなるとともに、那珂川八十八ヶ所は埋もれてしまいました。
昭和6年4月に田中嘉平の義理の息子である、神代房吉が安徳村中原の大徳寺住職徳永亮舜を訪れ、八十八ヶ所の再興について協力の要請をしました。
その結果、昭和6年11月に現在の『那珂川新四国八十八ヶ所』が発足しました。
つまり、田中嘉平は那珂川新国八十八ヶ所の開祖というわけです。
発足後、終戦前後の混乱期を除き、4月と9月の春秋2回、団体参詣と称し那珂川・春日・日佐・三宅方面から多くの信者が巡礼され、昭和51年(1976)頃まで続いたそうです。
おわりに
今回は那珂川八十八ヶ所の生みの親、田中嘉平さんを紹介しました。
なんと1度消滅してたんですね。
そして現在は『那珂川新四国八十八ヶ所』という名前だったとは。
ですが、昭和51年頃以降はまた埋もれてきているみたいです。
しかし、昭和59年に町観光協会は『那珂川八十八ヶ所写真集』を発行しています。
この頃は霊場めぐりのバスが運行されていたそうです。
この那珂川八十八ヶ所写真集の発行年と私が参考にしている『郷土なかがわ』の発行年は同じなので
同一物だと思われます。
今はまた消滅しているかもしれませんが、頑張って八十八ヶ所探したいと思います!!
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