こんにちは、トリぞーです。
前回は真珠湾攻撃にいたるまでから、アメリカ開戦までを紹介しました。
→山本五十六は戦争に反対だった!?真珠湾攻撃の真相を紹介します!
しかし、真珠湾攻撃より早く、別の作戦が決行されていたことは知っていますか?
太平洋戦争において、日本が勢いづくことになる作戦。
マレー・シンガポール作戦です。
今回は、真珠湾攻撃が太平洋戦争の幕開けと一般的にいわれている中で、実は真珠湾攻撃より前に始まっていたマレー・シンガポール作戦を紹介したいと思います。
マレー・シンガポール作戦
真珠湾攻撃が行われる前、日本陸軍は南方を攻略する作戦を立てていた。
その中で最初に行われた作戦が、マレー・シンガポール作戦である。
マレー・シンガポール作戦の目的はシンガポールを占領すること。
シンガポールは当時、香港と並ぶ東洋における最大拠点。
シンガポールを占領することで制海権を手に入れ、石油などを日本に運ぶことができる。
しかし、すでにシンガポールはイギリス軍が占領していた。
イギリス東洋艦隊の重火器はすさまじく、日本軍が真っ向から勝負することはできない。
そこで日本陸軍はシンガポールから約1,000km離れたマレー半島に上陸・縦断して、背後からイギリス軍を攻めることに。
これがマレー・シンガポール作戦であった。
コタバル上陸
昭和16年(1941)12月8日、まず日本軍はマレー半島・コタバルへ上陸した。
真珠湾攻撃の1時間50分も前のことである。
コタバルにはイギリス空軍基地があったが、司令官・陀美浩 少将ひきいる支隊が占領。
これにより、マレー・シンガポール作戦を有利に進める一役となった。
続けてタイのシンゴラ・パタニに上陸した。
タイ首相雲隠れ
タイのシンゴラとパタニに上陸した日本軍は一路、シンガポールを目指した。
タイは日本側からすると仲間でり、領内の通過許可と車両の提供をしてもらう予定だった。
日本が開戦直前にタイ政府と軍事同盟を結ぼうとしたその時、タイ首相のピプンは同盟を嫌がり、なんと雲隠れしてしまった。
当時、日本は太平洋戦争を大東亜戦争と呼び、「東南アジアの方々、アジア唯一の先進国・日本が欧米人から助けますよ!」と大義名分を振りかざしていた。
だが、タイは日本の助けを必要としておらず、むしろ距離をおいていた。
シンガポールまでの足である車両がない…
さらにはタイ軍から攻撃までも受けるハメに…
自転車で移動
上陸そうそう日本軍は出鼻をくじかれたが、マレー半島縦断まで残された日数は100日。
日本軍指揮官の佐伯静雄中佐は困り果てた。
そこに命令が下る。
「郊外のハジャイに進撃して、鉄道や車を奪いなさい」
シンゴラからハジャイまで車でも1時間近くかかる。
そこで佐伯中佐は思いつきます。
「そうだ!チャリで行こう!」
自転車をかき集め、移動を開始。
日本軍はハジャイ駅で自動車50台・列車2両を奪うと、国境をこえ進撃しました。
東洋のマジノ線
ハジャイからシンガポールに向かう道中にジットラとアロルスターという街がある。
ジットラとアロルスターの間は鉄条網、地雷、対戦車壕、トーチカなどが配置されているイギリス軍の防衛陣地だ。
イギリス軍はここをフランス・ドイツ国境の要塞線になぞらえて東洋のマジノ線と呼んだ。
東洋のマジノ線で日本軍を2、3ヶ月は足止めできる。
そう考えていたイギリス軍は度肝うぬかれた。
なんと日本軍は東洋のマジノ線を1日半で突破したのだ。
「ニホンジン、チョーハヤスギ」
東洋の電撃戦
イギリス軍の防衛陣地を脅威のスピードで突破した日本軍は、シンガポールへ向け突き進みました。
イギリス軍は道中の橋を落としたり、ジャングルの木を切って道を塞いだリと抵抗したが、日本軍は止まらない。
そして昭和17年(1942)1月31日にはシンガポールを望めるジョホールバルへ到着した。
日本軍はもともと100日で縦断する予定だったが、実際は55日で縦断し、これまでの進撃は東洋の電撃戦と呼ばれた。
シンガポールでの戦い
日本軍の進撃に追いつめられたイギリス軍は、シンガポールに逃げ込んだ。
マレー半島とシンガポールは橋でつながっていたが、イギリス軍は橋を破壊。
侵入してくる日本軍をジョホールバルで食い止めようとした。
そこで日本軍は陽動作戦を決行。
シンガポールの西側はマングローブが生い茂っており、上陸には不向きだった。
しかし、あえて西側からの上陸を選択した。
そして、オトリとして東側にある島に兵を集め攻撃開始。
イギリス軍は東側に兵を集中させるが、それを見た日本軍は西側から上陸。
そしてシンガポール市街を見下ろせるブキテマ高地・マンダイ高地が勝敗を決する場所とし、激しい戦いが繰り広げられた。
戦いは予想を超える長期戦となる。
攻略予定の2月11日を過ぎ、15日になると日本軍の砲弾は残りわずか。
軍司令部は攻撃を一時中止するか検討をしていると、突然イギリスから白旗が揚ったのだ。
日本より先にイギリスの砲弾や食料が底をついたのだった。
降伏交渉
日本軍とイギリス軍の降伏交渉はブキテマ村近くの、フォード自動車工場の一室で行われた。
最初に言葉を発したのは日本軍・山下司令官。
「わが軍は、あなた方の降伏以外は考慮にありません。」
(あぶねー、あと少し長引いたらこっちが負けてた…)
強気な発言だった。
この頃は日本にも戦う力はほとんど残っておらず、それを悟られないための発言だった。
しかし、イギリス軍のパーシバル中将は曖昧な返事。
降伏後のイギリス兵に対する細かな条件を提示するなど、交渉が進まない。
一方、日本軍は限界ギリギリ。
「時間作って何かしてくるのか?」
兵力数では劣っていたため、パーシバル中将の条件を無視して
「われわれの条件はのめるのか?イエスかノーで答えろ!」
山下司令官は怒りを前面に出して対応したが、後にこれはわざと怒ったフリをしたのだと言われている。
「イ、イエス、アイ・アグリー…(降伏します)」
パーシバル中将は小さな弱々しい声で返事をし、降伏文書にサインをしたのだった。
まとめ
以前、記事にした真珠湾攻撃より前、実は開戦直前に決行されていたマレー・シンガポール作戦。
真珠湾攻撃に隠れて、影が薄い作戦だったかもしれませんが、脅威の進撃によりイギリス軍を撃破し、東洋における最大拠点・シンガポールの占領に成功。
真珠湾攻撃は奇襲による勝利でしたが、マレー・シンガポール作戦は日本軍の底力を見せた戦い、そして交渉術だったと感じます。
アメリカ軍・イギリス軍を撃破した日本はさらに南方攻略を進めることになります。
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