松浦隆信は無能?平戸のポルトガル貿易を簡単解説

衰退する街並みの絵
記事の内容

平戸とポルトガルとの貿易の歴史を分かりやすく紹介します!

  • 平戸にポルトガル商船がきたのは、鉄砲伝来の7年後
  • 平戸領主・松浦隆信により、ポルトガル貿易開始
  • キリスト教がひろまるも、仏教と対立(宮の前事件)
  • 隆信は事態をおさめきれない
  • ポルトガルが隆信をウラ切る

こんにちは、トリぞーです。

この記事は、平戸とポルトガルの貿易の歴史に興味がある方に向けた内容です。

  • 日本とポルトの貿易はどうやってはじまったの?
  • 平戸での貿易はどんな感じ?
  • キリスト教との関係は?
  • 宮の前事件ってなに?
  • なんで平戸は衰退したの?

これらの疑問に応えます。

少々、デフォルメしてますが先生方の書籍にもとづき、分かりやすい説明につとめました!

ストーリー風です

平戸はキリスト教と関わりが深い場所であり、教会群が現存しています。

目次

平戸にポルトガル商船が入港するまで

ポルトガルの港町の夕焼け

天文10年(1541)はじめて、ポルトガル船が日本に漂着したとされています。

場所は豊後国(大分県)の神宮寺浦。

天文12年(1543)鹿児島県の種子島に、ポルトガル商人が漂着。

鉄砲などの武器が日本に広まり、ポルトガルとの貿易が始まりました。

種子島での伝来を機に、ポルトガル商船が毎年のように薩摩、日向、豊後に来港するようになります。

天文18年(1549)8月にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。

薩摩当主・島津貴久(たかひさ)に会い、キリスト教布教の許可をもらいます。

しかし、貴久はポルトガルとの貿易にしか興味がなく、ザビエルはわずか1年で鹿児島をさりました。

新たな布教の地を探していたザビエルは、平戸に目をつけます。

当時、平戸は中国の海賊・王直を保護しており、王直の本拠地がありました。

王直はポルトガル商人の手助けをしていたこともあり、

平戸にポルトガル商船が入港したウラには、海賊・王直との関係があったとされています。

天文19年(1550)はじめて平戸に、ポルトガル商船が入港しました

種子島に鉄砲が伝わってから7年後となります。

平戸でポルトガル貿易開始

貿易に使用されるコンテナ

平戸の領主・松浦隆信(たかのぶ)は鉄砲などの新兵器や収入源を目的に、ポルトガルと貿易を開始します。

ポルトガルとの貿易は、キリスト教の布教が条件となっていました

他国との遅れにあせっていた隆信は、毎年ポルトガル商船を入港させようと宣教師に働きかけます。

隆信「キリスト教って教会いるでしょ?

隆信「建てていいかなー、やっぱりやめようかなw

天文22年(1553)平戸を訪れたバルタザール・ガーゴ神父にたいして、隆信は修道院建設用地付与をチラつかせます。

布教には教会が必須だったため、ポルトガルは平戸との貿易を盛んに行うようになりました。

天文22~永禄4年(1553~1561)まで、毎年ポルトガル商船が平戸にきました。

平戸は南蛮貿易港として、定着したのです

キリスト教の布教をおさえる

NOと書かれたメモ

弘治3年(1557)8月、ガーゴ神父の支援にガスバール・ヴィレラ神父が平戸をおとずれます。

ヴィレラ神父により、さらにキリスト教布教が活発になりました。

しかし、このヴィレラ神父が悪いヤツ。

ヴィレラ「ブッダ?知らねー

ヴィレラ「イエスさまの名のもとに!

キリスト教徒が、平戸にある寺や神社を壊しはじめます

この行動に、仏教僧侶たちが激オコ。

平戸の混乱にあせった隆信は、ヴィレラ神父を落ちつかせます。

隆信「ちょ、ヴィレラさんヤリすぎ!

隆信「すこし観光でもどうですか?汗

松浦隆信はいつもあせってますね

永禄元年(1558)隆信はヴィレラを退去させ、教会を閉鎖します。

隆信「教会も閉めたし、僧侶たちも落ちついてね?

僧侶「教会も壊しなさいよ

隆信「

永禄2年(1559)滞在していたポルトガル商船が出港すると、隆信は教会を壊します。

隆信「ったく、あの坊主ども

隆信「こっちの事情も知らねーで

永禄3年(1560)来航したポルトガル商人は、教会が壊されていることに驚きます。

商人「教会ガ壊レテルヨー!

商人「マタ作ッテヨー!

しかし、隆信はこの訴えを拒否。

隆信「あきんど風情が!

隆信「おまえらの言うことなんか聞けるか!

僧侶や平戸民の怒りを抑えるために教会が壊されたため、

ポルトガル人は商船の甲板に即席の祭壇を作ったり、小船に乗って島々をまわることで布教を続けました。

宮の前事件

戦車を使った戦場の模型

キリスト教の布教により平戸にはキリシタンが増え、仏教徒たちとの間に不穏な空気がながれていました。

隆信は貿易をするためにキリスト教にもいい顔を、

一方、平戸を混乱から守るために、仏教徒にもいい顔をしないといけない。

隆信は、キリスト教と仏教の板ばさみになっていました

両者へのあいまいな態度が、状況をさらに悪化させます。

永禄4年(1561)8月、ポルトガル商人と平戸民との間で、生糸をめぐって争いが起きます。

この争いにより、ポルトガル船長をふくむ、14人が平戸民に殺さてしまいます

宮の前事件です。

隆信は事態おさめるため、あせります。

ポルトガル「コッチハ14人モ死ンデルネ!

隆信「落ちついて!ね、まずは落ちつこうよ!

平戸民「おまえは南蛮人か!

隆信「

事件の処理にかんしても誠意が見られず、ポルトガルを怒らせます。

隆信に不信感をいだいたポルトガルは、貿易を中止しました

平戸の衰退

衰退する街並みの絵

永禄5年(1562)ポルトガルは新たな貿易港として、横瀬浦(西海市)で貿易を再開します

横瀬浦を支配していたのは、敵である大村家の大村純忠(すみただ)。

ポルトガルとの貿易が中止となり、さらに敵である純忠に利益が入る。

あせるにあせった隆信は、ルイス・フロイスに謝罪します。

隆信「マジですみません!

隆信「教会たてていいから許して!

フロイス「…わかりました

私が許しました笑

隆信は教会の再建をみとめ、

永禄7年(1564)にポルトガル商船を、平戸に入港してもらえることができました。

このとき、大村純忠はクーデターにあい、横瀬浦も平戸と同じ状態だったのです

宣教師「横瀬浦モNGネー、仕方ナイカラ平戸二戻ルカ

ふたたび平戸に来航してくれるようになったが、

キリシタンになった純忠とくらべ、隆信への信頼感は戻りません。

貿易は再開しますが、ポルトガルは隆信に利益が入らないようにしたのです。

永禄8年(1565)純忠が長崎に開港したことで、ポルトガル商船は長崎に入港するようになります

収益ゼロにガマンしていた隆信も、これにはブチギレ。

隆信「オカマ南蛮人のウラ切り…

隆信「もーガマンできん、戦争だっ!

隆信は長崎に入港するポルトガル商船にたいし、攻撃をしかけます。

隆信「オラオラオラオラ!

ポルトガル「ン?何シテルノ?

隆信「オラオラオ…え?

ポルトガル砲「ドカーン

隆信はポルトガル商船を攻撃するも、反撃にあいます。

3隻の大型船が破壊され80人が死亡、220人以上が負傷して撤退。

ポルトガル人の死亡者は8人でした。

この事件により、平戸とポルトガルの貿易は完全に断絶したのです

そして、平戸は衰退してきました。

まとめ

今回は平戸とポルトガルの貿易の歴史を紹介しました。

  • 天文19年(1550)はじめて平戸にポルトガル商船が入港
  • 貿易とキリスト教がひろまるも、仏教との争いがおきる
  • ワルいのは宣教師
  • 松浦隆信は、争いをまとめきれなかった。
  • ポルトガルが隆信をウラ切る
  • 隆信はポルトガルを攻撃するが、反撃され貿易は断絶

以上が、平戸とポルトガルの貿易の歴史となります。

1番ワルいのは宣教師ですよね。

寺とか神社を壊されれば、そりゃ怒るでしょう。

これからもキリシタンの歴史探訪は続きます!

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