【入門ガイド】潜伏キリシタン関連遺産を簡単に解説します!

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
記事の内容

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を

紹介します!

  • 長崎と天草地方にある12の資産で構成
  • 遺産は潜伏しながら信仰を続けた証
  • 12の資産を紹介
  • 知識があると旅はもっとオモシロい!

人の一生は雰囲気で決まる、トリぞーです。

この記事は世界遺産・潜伏キリシタン関連遺産を紹介しています。

  • どんな世界遺産なの?
  • どこに、どんな関連遺産があるの?
  • 入門編として簡単に知りたい!

これらの疑問、要望に応えます。

記事を読むと、潜伏キリシタン関連遺産である、

12の構成資産の概要が分かります

潜伏キリシタン関連遺産を訪れる前に記事を読むと、

理解が深まり、もっと楽しい旅になる!

旅の前に知ってほしい内容!

参考文献
  • よくわかる潜伏キリシタン関連遺跡
  • 潜伏キリシタン移住の歴史的背景
目次

潜伏キリシタン関連遺産とは?

紙に切り抜かれた十字架

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産とは、

長崎県と熊本県天草地方にある、

潜伏キリシタンに関連した世界遺産です

2018年7月に世界文化遺産に登録されました。

以下、潜伏キリシタン遺産と書きます

潜伏キリシタンとは、日本における禁教時代に、

仏教や神道のふりをしながら、信仰を守っていたキリスト教信者です。

キリスト教の禁教は250年もつづきました。

潜伏キリシタン遺産は、

250年の歴史を4つの時代に分け構成されています

潜伏キリシタン遺産の4つの時代
  • 始まりの時代
  • 形成の時代
  • 維持-拡大の時代
  • 変容-終わりの時代

始まりの時代

潜伏キリシタンの時代が始まったきっかけは、

島原・天草一揆です。

天正15年(1587)豊臣秀吉がバテレン追放令を出しました。

これにより、キリスト教への弾圧が始まります。

慶長2年(1597)には長崎の西坂にて、

宣教師や日本人信者ら26人が処刑されました。

日本26聖人の殉教です

江戸時代になると全国に禁教令がひろがり、

宣教師は国外へ追放、教会堂は破壊されました。

ひそかに潜入する宣教師や信者にたいして、拷問や処刑。

一般民衆にもキリシタン探索が強化されました。

島原・天草一揆は寛永14年(1637)におこります。

2万人をこえるキリシタンが立ち上がり、原城跡に籠城。

しかし、幕府軍によりほぼ全員が殺され、一揆は鎮圧されました。

島原・天草一揆により幕府は鎖国を決めます。

正保元年(1644)最後の宣教師が殉職すると、

日本にいた外国人宣教はいなくなりました。

キリシタンは宣教師に導かれることなく、

自分たち自身で信仰を続けていくしかありません

ここから潜伏キリシタンの歴史が始まったのです。

形成の時代

日本各地では、宣教師との接触が絶たれた後も信仰はつづきました。

キビしい探索をかいくぐり、表向きは普通の生活を送りながら、

キリシタンは潜伏することを選んだのです。

潜伏キリシタンの誕生です!

17世紀後半になると、各地で大規模な潜伏キリシタンの摘発事件がつづきました。

その結果、ほとんどの潜伏キリシタンは途絶えてしまいます。

しかし、信仰を継続した地域があったのです。

それが、長崎・天草地方でした。

長崎・天草地方はかつての布教拠点であり、

他の地域とくらべ、組織的な信仰の基礎が整っていたのです

維持-拡大の時代

18世紀の終わりになると、長崎の外海(そとめ)では人口が増加し、

五島地域へ開拓移住が行われました。

移住者の中には多くの潜伏キリシタンが含まれており、

五島の各地に潜伏キリシタンの集落がつくられ、

信仰は拡大します。

潜伏キリシタンは信仰を維持するため、

未開拓地や、仏教や神道にまぎれる地域を選びました

終わりの時代

アメリカをはじめとした西洋諸国からの開国要求を受け、

安政元年(1854)江戸幕府は下田や函館を開港します。

宣教師も長崎に入り、居留地に住む西洋人のために大浦天主堂を建てました。

慶応元年(1865)潜伏キリシタンの1人が大浦天主堂の神父に、

潜伏キリシタンの存在を伝えます

この信徒発見といわれる告白により、

潜伏キリシタンの時代が終わりました。

なぜ世界遺産となったのか?

質問と答え

潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産となった理由は、拷問や処刑がありながら、

独自の信仰を250年間、潜伏しながら守りつづけた証だからです

キリスト教信仰が禁じられた時代の、

信仰生活を伝える価値が認められました。

世界に類がありません!

登録された基準

文明や特徴的な時代が存在していたことを

証明する遺産(文明の証拠)

12の構成遺産を簡単紹介

2つ並んだ子供の天使の像

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産は、

12の遺産で構成されています。

長崎県や熊本県天草地方に分布しており、

潜伏の歴史を、現代において証明しています。

潜伏キリシタン遺産は、12の遺産で1つの世界遺産としての価値があり、

教会などは現在もつかわれています。

始まり時代の遺産
終わりの時代

原城跡

世界遺産の原城跡の入り口

原城跡は長崎県南島原市有馬町にあります。

原城はもともと、有馬氏の日野江城の支城でした。

島原・天草一揆がおきた当時、

一国一城令により、廃城となっていたのです。

天草の一揆勢は海をわたり、島原半島の一揆勢と合流。

最終的に原城に籠城し、幕府軍との壮絶な戦いが

くり広げられることになりました。

籠城した一揆勢は、約3万7千人。

うち2万がキリシタン

対して、松平信綱(のぶつな)が指揮する討伐軍は、

九州諸藩から派遣された軍をふくめ、総勢12万人をこえました。

天草・島原一揆は、

一揆として日本歴史上、最大のものとなったのです

春日集落と安満岳

春日集落と安満(やすまん)岳のある平戸は、

地理的に朝鮮半島や中国に近く、遣唐使などの寄港地として重要な拠点でした。

日本に最初に上陸したフランシスコ・ザビエルは、ポルトガル船で平戸にうつり、

天文19年(1550)平戸の地でキリスト教が広まる土台を築きます。

平戸島の西海岸にある春日集落は、

松浦氏の家臣・籠手田(こてだ)氏の領地です。

籠手田氏がキリシタンになったので、

春日集落にもキリスト教が広まりました。

しかし、幕府が禁教令を発すると、キリシタン弾圧にが始まります。

平戸島のキリシタンも表面は仏教徒をよそおいながら、潜伏キリシタンとなりました。

日本では古来より自然崇拝として、山や島を敬ってきました。

春日集落では、平戸でもっとも高い山である安満岳が、

聖地として信仰の対象になったのです。

オラショにも「安満岳様」という言葉が含まれています。

オラショとは祈りの言葉です

隠れキリシタンの里として、生月(いきつき)島の方が春日集落より知られています。

しかし専門家による研究で、聖地崇拝によって信仰を隠した潜伏キリシタン集落のうち、

春日集落が真実性が高く、保存体制が確実となっています

構成遺産になった理由ですね

春日集落のキリシタンは信徒発見後も、

カトリックには復帰せず、禁教時代の信仰を継続したました。

現在では、潜伏キリシタンとしての組織的な信仰は見られません。

中江ノ島

中江ノ島は、キリシタンの処刑が行われた殉教の島です。

イエズス会の宣教師の記録にも残っています。

春日集落や生月島のキリシタンは、中江ノ島を聖地として、

「お中江さま」「サン・ジュワン様」と呼びました。

サン:聖、ジュワン:ヨハネ

洗礼でつかう聖水を確保する「お水とり」という儀式も、中江ノ島で行われていました。

慶長17年(1612)徳川家康がキリシタン禁教令を出し、長崎の宣教師は追放されました。

しかし、追放されていはずの宣教師が平戸に潜入していたことが発覚。

生月島のキリシタンが関係したいとして、中江ノ島で処刑されます

翌年にはその家族も同じように、島で処刑されました。

天草の﨑津集落

世界遺産の﨑津教会

天草の﨑津集落は、漁村特有の形でキリスト教を信仰した集落です。

日本にキリスト教が伝来した16世紀中期、

天草では天草5人衆が有力者として、それぞれの地域を支配していました。

天草5人衆
  • 志岐(しき)氏
  • 天草氏
  • 大矢野氏
  • 上津浦氏
  • 洲本氏

﨑津は天草氏が治めていました。

領主の天草鎮尚(しげひさ)がポルトガル人の宣教師、ルイス・デ・アルメイダを招いたことからキリスト教が伝わります。

天草氏はキリシタン大名の小西行長(ゆきなが)の支配下となり、バテレン追放令の後も宣教師を守っていました。

島原天草一揆の後、﨑津集落のキリシタンは潜伏し、仏教徒や神社の氏子となって、キリスト教の信仰をつづけました。

﨑津集落では、七福神の1人・大黒天や恵比須神をキリスト教の神(デウス)としたり、

アワビの貝殻の模様を聖母マリアと見たてました。

漁村では身近なものを活用して、信仰をつづけたことが特徴です

禁教令が解かれると、長崎の伝道師が天草に入り、カトリックへの復帰がはじまりました。

﨑津集落でも、多く潜伏キリシタンがカトリックに復帰ます。

明治18年(1885)崎津集落にフェリエ神父が着任し、教会が建てられました。

現在の﨑津教会は昭和9年(1934)に、

フランス人宣教師・ハルプ神父の時代に建てられました。

外海の出津集落

元亀2年(1571)外海の出津集落にキリスト教が伝わります。

当時は宣教師がいたものの、禁教令が出されると、

表面では仏教の寺院に通いながら、組織的な信仰をつづけました。

各地域の潜伏キリシタンは、信心具を隠して信仰していますが、

出津集落の信仰がもっとも真実性が高いとされています

禁教令が解かれると、出津集落の潜伏キリシタンは徐々にカトリックに復帰します。

明治15年(1882)フランス人のド・ロ神父によって、出津教会堂が建てられました。

外海の大野集落

外海の大野集落では、潜伏キリシタンは仏教徒になり、

集落内の3つ神社の氏子となっていました。

大野集落の神社
  • 辻神社
  • 大野神社
  • 門神社

大浦天主堂での信徒発見いこう、

大野集落の潜伏キリシタンはカトリックに復帰。

1877〜1893年までに、200人をこえる潜伏キリシタンがカトリックの洗礼を受けます。

明治26年(1893)集落内に大野教会堂が建てられ、潜伏の時代は終わりました。

大野集落には、その他にも関連遺跡があります。

大野集落の遺跡
  • 大野教会堂
  • ド・ロ神父大平作業所跡
  • ド・ロ様の畑(大平開墾地)
  • ド・ロ様の緯度
  • バスチャン屋敷跡

黒島の集落

佐世保市にある黒島は、九十九島の1つであり、

江戸時代の禁教期に潜伏キリシタンが移住しました。

キリスト教が日本に伝えられた16〜17世紀はじめにかけて、

黒島で宣教師の活動の記録はありません。

潜伏キリシタンが移住してくるまで、黒島にキリスト教は伝わっていませんでした。

平戸の人口増加により、平戸藩は黒島へ開拓民を送りました。

藩が送る移民だったため、潜伏キリシタンたちは怪しまれることなく、

集団で移住したことが分かっています。

黒島では以前からあった本村とは別に、

移住者によって7つの集落がつくられます。

そのうち、6つの集落が潜伏キリシタンによりつくられました。

6つの集落
  • 東堂平(とうどうびら)
  • 日数(ひかず)
  • 名切(なきり)
  • 根谷(ねや)
  • 田代
  • 蕨(わらべ)

あとの1つは古里集落です

潜伏キリシタンは、黒島にある黒島神社の氏子として隠れます。

明治5年(1872)禁教令が解かれた後に、黒島神社でお祭り行われました。

お祭りに参加した集落が本村、古里のみだっため、

潜伏キリシタンがカトリックへ復帰したことが発覚したのです。

現在の黒島天主堂は、明治35年(1902)にレンガ造で再建され、

国の重要文化財に指定されています。

野崎島の集落跡

野崎島は長崎県小値賀町の隣にある島です。

北部の沖ノ神嶋神社は海上交通の守り神とされ、

神官以外の人は住むことができませんでした

江戸時代中期までは野崎集落だけでしたが、

外海からの潜伏キリシタンが移住し、野首集落・舟森集落がつくられます

信徒発見後も、野崎島では弾圧が続きました。

野首から8戸、舟森から7戸、計50人が平戸に連行され拷問をうけます。

拷問後に改宗を受け入れ、島に戻されますが、家々は略奪にあっていました。

明治6年(1873)禁教令の高札がはずされ、

ようやくキリスト教の信仰が認められたのです。

野首・舟森集落には、それぞれ教会堂が建てられました。

野首教会が現存していますが、舟森集落の瀬戸脇教会は現存していません。

太平洋戦争後、野崎島は過疎化がすすみ、

昭和46年(1971)に最後の信者が島を離れ、野首教会も役割を終えました。

頭ヶ島の集落

頭ヶ島は長崎県の新上五島町にあり、

上五島とは頭ヶ島大橋でつながっています。

頭ヶ島は江戸時代まで無人島でした

江戸時代から病人の療養所として利用され、

その後に開拓民が移住し、集落がつくられます

その移住民が潜伏キリシタンでした。

開拓民を移住させた人物が、久賀島出身の前田儀太夫(ぎだゆう)。

義太夫は仏教徒であり、外海からの開拓民が潜伏キリシタンだと分かっていました。

しかし、台風の上陸や大火、病気の流行などで財政は悪化。

荒れ果てた五島の開墾が急務だったのです。

頭ヶ島は仏教徒のもとで、潜伏キリシタンが開拓した島となりました

久賀島の集落

久賀島は、五島列島でもっとも大きい福江島の北にあります。

禁教時代は仏教徒のみが住む島でしたが、

五島藩が開拓民の移住をすすめたため、外海地方から潜伏キリシタンが移住しました。

久賀島では従来からの仏教徒と、移住してきた潜伏キリシタンが強力し、

農業や漁業を通して生活を送ってきました。

ロクロ場跡は、仏教徒と潜伏キリシタンが共同で漁業を行った場所です。

一方、久賀島の五輪(ごりん)集落は、

潜伏キリシタンによってつくられた集落です。

他の集落から離れ、道も整備されていませんでした。

五輪集落の墓地は、時代によって墓石の形状が変化したことが確認できます。

禁教令が解かれた後は、各集落に教会が建てられますが、

五輪集落は資金難や立地の悪さから、教会は建てられませんでした。

昭和6年(1931)同じ久賀島の浜脇教会堂が改築されるのを機会に、

古い浜脇教会堂を五輪集落へ移築されました。

旧五輪教会堂です

奈留島の江上集落

奈留(なる)島は五島列島のほぼ中央にあり、

潜伏キリシタンの集落である江上集落は、島の北西に位置しています。

江上集落の潜伏キリシタンは、せまい土地での畑作や、漁業で生計を営みながら、信仰をつづけていました。

奈留島はもともと、奈留氏が治めていましたが、

宇久島の宇久氏が勢力を拡大し、最大の島・福江島に移ったことから、

ほぼ全域が宇久氏の支配下となります。

宇久氏は秀吉が天下統一をしたころから、

五島と名乗り、江戸時代には五島藩となります。

永禄9年(1566)宇久純定(すみさだ)が、

ルイス・デ・アルメイダ修道士を招いたことから、キリスト教が広まりました。

福江島を中心に信者が増えますが、

江戸時代の禁教令が出ると、五島藩も従います。

寛永5年(1628)にはキリシタンの入島を禁じ、

五島ではキリシタンは途絶えたとされたいました。

しかし、寛政9年(1797)の人送り協定により、

奈留島の江上集落にも、4家族の潜伏キリシタンが移住したのです。

この4家族が、現代までつづく信者の先祖とされています。

禁教令が解けた後も、奈留島の信者は潜伏キリシタンの信仰を維持する者が多くいました

信仰の自由を得た後も、キリシタンであることを隠している信者を、

狭い意味での「隠れキリシタン」と呼びます。

江上地区に教会が建てられたのは明治39年(1906)。

大正7年(1918)に、現在の江上天主堂が建てられました。

江上天主堂は他の教会とは異なります。

日本的な特徴と西洋的な特徴が融合した独自の建物であり、

平成20年(2008)に国指定の重要文化財になりました。

日本的な高床式の教会です

大浦天主堂

大浦天主堂の外観

大浦天主堂は、慶長2年(1597)に長崎で処刑された26名のキリシタンのために建てられました。

正式な教会名は、日本26聖人殉教者天主堂といいます。

建てられた当時はキリスト教に関係なく、多くの見物客が訪れました。

その中に、浦上の潜伏キリシタンが混じっていたのです。

潜伏キリシタンはプティジャン神父に、

キリシタンであると告白します。

隠れて信仰してきました…

プティジャン神父

マジで!?

この瞬間、250年もの間、信仰を守り続けてきた、日本人キリシタンの存在が明らかになりました

信徒発見です。

信徒発見いこう、各地の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪れますが、

まだ幕府は禁教令を解いていません。

潜伏キリシタンと告白した信者は次々に捕らえられ、拷問をうけました。

これらの潜伏キリシタンの発覚と弾圧は崩れと呼ばれます。

まとめ

今回は長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を紹介しました!

  • 潜伏キリシタン遺産は12の構成遺産でできている
  • 250年間、潜伏しながら信仰は世界でも類がない
  • 知識があると旅はもっとオモシロイ!

知識があると旅がもっとオモシロくなります!

この記事で、サイコーの旅ができたら嬉しいです!

ありがとうございました!

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