タコスミも美味って、トリぞーです。
世界遺産検定を受験することを決めてから、初めて実際に世界遺産を訪れました。
場所は山口県は萩市。
萩市にある明治日本の産業革命遺産の萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾をまるっと訪問。
→【世界遺産】明治日本の産業革命遺産の概要を勉強します!!英語での説明も大切!
今回はその中でも萩反射炉について世界遺産の紹介や歴史を勉強したいと思います。
反射炉
反射炉とは鉄製の大砲や部品を製造するために必要な金属を溶かす施設。
当時、日本は海外からの脅威に備えて、嘉永6年(1853)に江戸幕府は各藩に軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁しました。
そこで日本初の反射炉の建造に成功したのが佐賀藩です。
佐賀藩は嘉永3年(1850)にはすでに佐賀城の西北築地(ついち)に反射炉を建設していました。
これは長崎で起きたフェートン号事件による海外への危機意識があったからです。
長崎を警備を担当していた佐賀藩は、フェートン号事件による警備の不備を痛感。
防備拡充・軍備の増強を急務として、洋式工場の開設や新軍事力の開発を課題としました。
こうして現在の佐賀市に日本初の反射炉である築地反射炉が建設されました。
萩反射炉の歴史
萩反射炉は萩藩が海防強化の一環として製鉄大砲を作るため、安政3年(1856)に試作的に築造した反射炉です。
しかし、萩藩は当時反射炉の作り方を知りません。
そこで1850年にはすでに反射炉を建設していた佐賀藩に大工棟梁を派遣し、反射炉をスケッチして持ち帰ります。
当時、佐賀藩は反射炉の建設するにあたりオランダの技術書である鉄熕鋳鑑図を参考にしました。
この技術書には反射炉の煙突の長さは16mと記載されていました。
しかし、スケッチを参考に建設された萩反射炉の煙突の高さは10.5m。
このことからも試作的に建てられたことが分かります。
試作的に作られた萩反射炉ですが、建設には苦労した様子です。
萩藩は炉を作るために安政2年(1855)に操業が開始された大板山たたら製鉄所の炉を参考にしました。
しかし、たたら製鉄の炉は作るのに薪や炭を燃やし100日間もかかります。
さらにせっかく作った炉も、1回使うと壊してしまうものでした。
これに対して反射炉は1回で壊すというわけにはいきません。
しかし、長期的に使うと雨水などが染み込み、このような炉では金属を溶かすことは出来ない。
このこともあり、萩反射炉は技術的・費用的にも難しいことから萩藩は本格的な反射炉の建設を断念します。
この試行錯誤が幕末に萩藩が自力で産業の近代化を目指していた証明となる貴重な遺産となり、明治日本の産業革命遺産に登録されました。
世界遺産 萩反射炉
日本では幕末に各地で反射炉が建設されています。
その中で現存している反射炉は静岡県にある韮山反射炉のみ。
そんな中、煙突部が残っているのが萩反射炉です。
日本最初の反射炉である佐賀は跡地だけであり、他の反射炉も残っていません。(鹿児島は基礎石組のみ)
萩反射炉は平成24年(2012)に国史跡指定、そして平成27年(2015)に世界遺産に登録されました。
登録理由としては当時の反射炉の一部があること、産業革命の歴史には必ずあったであろ失敗を証明できる遺産であるからだと思われます。
駐車場
萩反射炉は少し高台になっているところにあり、その下に広い駐車場があります。
日曜日の昼に訪れたのですが、駐車場はがら空き。
駐車に困ることはありません。
階段
駐車場に車を停めるとそこから階段を登らなくてはなりません。
そこまでキツイ階段ではありませんが、足腰に不安がある方には少し大変でなという印象。
案内
萩反射炉にはボランティアで案内をしてくれる人がいると思います。笑
私が訪れた時は休憩中という札があり、人がいるかは分かりませんでした。
でも案内が苦手な私はゆっくりひとりで楽しむことができました。
おわりに
今回は明治日本の産業革命遺産の1つである、萩反射炉を訪れました。
日本で当時の反射炉が見れるのは静岡とここ萩のみ。
歴史的には萩反射炉は試作であり、失敗に終わっています。
しかし、ここに当時の萩藩の努力が見ることができ、試行錯誤が評価されました。
産業革命とは失敗の積み重ねだと思います。
失敗に終わった萩反射炉が明治日本の産業革命に選ばれたことは本当に素晴らしいことだと感じました。
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