豪雨だけど車の中、トリぞーです。
前回は大友宗麟が大友家を継いだ、二階崩れの真相などを紹介しました。
→【大友宗麟】若干21歳の若さで当主に!二階崩れの裏側と当主になるまでを紹介します!!
今回は大友家当主となった大友宗麟のその後を紹介します。
宗麟 離婚
宗麟は二階崩れ後、奇跡的に助かった夫人と離婚します。
宗麟は父 義鑑(よしあき)の意図によって無理やり結婚させられ、いわば政略によるものでした。
宗麟はこの女性と気が合わず、心も通じていません。
それに子供もいません。
宗麟は父によって染められた残影を払拭して、新時代への一新を図りました。
宗麟 再婚
宗麟は最初の妻を離別した後、次の妻を迎えました。
この女性が長く正室として、大友家で権力を振るうことになる奈多(なだ)夫人。
彼女の実名は不明です。
大分県杵築市奈多にある奈多八幡宮の大宮司・奈多鑑基(なだ あきもと)の娘。
奈多八幡宮は宇佐八幡宮の別れです。
彼女との結婚は、宗麟が最初の妻と離婚して間もない頃と思われます。
それについては、天正5年(1577)5月19日付けの宣教師であるルイス・フロイトの手紙に、宗麟と奈多夫人とは30年近い結婚生活を送っていたいとの記述があります。
宗麟と奈多夫人との間には長男 義統(よしすべ)、次男 親家(ちかいえ)、三男 親盛(ちかもり)の男子3人と女子4人がいたこともフロイトの手紙に記されています。
ザビエルとの出会い
日本におけるキリスト教は九州から始まります。
宣教師の足跡は鹿児島、長崎の平戸・大村・島原、京都、山口、大分、博多へと広がっていきました。
日本布教に尽力したのはイエズス会です。
宗麟が大友家当主となった、天文20年(1551)8月。
その頃、大内義隆(おおうち よしたか)の城下である山口に滞在していたのがイエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエル。
ザビエルは宗麟の招きで府内(大分市)に初めて入ります。
同じ年にポルトガル船が大分県日出市の港に来航したため、宗麟は山口にいたザビエルを招きました。
宗麟はキリスト教への興味だけではなく、貿易での利益と新兵器の入手の意図もありました。
宗麟「キリスト教はよー分からんけど、新しい武器は興味深い」
〜ザビエル来航〜
ザビエル「ボンヂ〜ア〜」
宗麟「う、う、美しいぃぃぃ!!」
ポルトガル船員「ザビエル様〜〜〜!!」
宗麟「ザビエル様〜〜〜!!」
ザビエル一行が来航した際、宗麟はその美しさに感動。
また、ポルトガル船の船長や商人らがザビエルを神のように尊敬しているのを眼のあたりしたことにより、宗麟も彼への敬意を抱くようりなります。
宗麟はザビエルを丁重にもてなしました。
ザビエルの方もこの若い豊後の国主に対して、極めて親愛の情を感じました。
宗麟は領内でのザビエルの布教を許可し、ザビエルにとって宗麟は日本滞在中に得た友となりました。
宗麟がキリスト教の聖者との出会いで受けた感銘は、のちに宗麟が受洗した際に、ザビエルにあやかり教名をドン・フランシスコとしたことからもザビエルへの尊敬の念がわかります。
つづく
宗麟は新しい伴侶を得て、ザビエルとの出会いもありました。
しかし、新しい奥さんは有名な宇佐八幡宮の別れである、奈多八幡宮の娘さんです。
この宗教の違いがのちに宗麟と奈多夫人との間に大きな障害となって溝を作ります。
2人の悲劇となるとは…
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つづく!!
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