紫外線が気になり始める、トリぞーです。
新しい元号、令和に変わって数日。
福岡県太宰府市は観光客でごったがえ。
そんな中、話題の太宰府に謎の宿泊施設跡が発掘されました!!
この記事では
太宰府にある大宰府
太宰府と大宰府には違いがあります。
古代日本において、中国大陸や朝鮮半島との外交の窓口となっていた建物が大宰府。
天智天皇2年(663)大和朝廷は百済(くだら)復興のために、朝鮮半島へ軍を差し向けました。
しかし、唐・新羅(しらぎ)連合軍に大敗。
これが、白村江の戦い。
敗戦後、唐・新羅連合軍の来襲を恐れた朝廷は、九州地方の防御を固めるとともに現在、大宰府政庁跡が残る場所に政治、軍事、対外防衛のための拠点を築きました。
これが大宰府です。
8世紀には50人の職員を有する地方最大の官庁となり、奈良・平安時代を通じて遣唐使などの対外交渉の拠点として発展しました。
しかし、鎌倉時代中期の蒙古襲来後、鎌倉幕府の出先機関は博多に置かれるようになり、大宰府はその役目を終えました。
謎の宿泊施設
平成23年(2011)大宰府政庁跡から南へ約1km、朱雀大路の東側に広がる西鉄操車場跡地から巨大な建物跡が発掘されました。
8世紀前半から9世紀前半のものと思われる、約30m×9m、約24m×9mという大型建物2棟の遺構です。
この遺構からは新羅製の金属食器である佐波理(さはり)、奈良三彩や漆器などが発掘されました。
正倉院に納められている宝物に見られるような高級食器や平安時代の大宰府長官の腹帯である白玉帯など、通常の役所跡や住居跡では見つからない希少品が出土したのです。
これらのことから、かつてこの場所は外国使節を迎えた客館だったのではと見られるようになりました。
鴻臚館
鴻臚館(こうろうかん)とは外国使節を滞在させ、もてなす迎賓館です。
博多湾沿いにあったとされています。
また、鴻臚館の前身を筑紫館といい、平安時代に鴻臚館という名に改められました。
この鴻臚館は平安京(京都)、難波(大阪)にも置かれ、7世紀後半から11世紀までの約400年間、文化交流の窓口として重要な役割を果たします。
鴻臚館以外の客館
今回の発掘された建物が、もし客館であるとするならば、博多湾にある鴻臚館とは別に、博多から近い太宰府に宿泊施設が並存していたことになります。
その理由として、朝廷が何らかの形で2つの客館を使い分けていたのではと考えられています。
外交拠点としての大宰府には外国使節を管理する「蕃客(ばんきゃく)」、帰化志願者を管理する「帰化」、外国使節をもてなす「饗讌(きょうえん)」という3つの役割を担っていました。
このうち饗讌は朝廷と大宰府だけが持つ機能であり、外国使節を入京させない場合、朝廷から派遣された使者が大宰府で対応しました。
大宰府での対応がそのまま日本のイメージにつながるため、非常に重要な役割だったと考えられています。
外交や饗讌自体は大宰府政庁で行われていたはずであり、そうすると政庁近くに外国使節のための宿泊施設が必要となります。
つまり、少数の位の高い者たちは政庁近くの、今回発見された客館でもてなされ、それ以外の者たちは鴻臚館でもてなされたと考えられています。
この客館の推定建築年代は8世紀前半ごろ、また出土した食器類の年代が8世紀から9世紀前半とされていることから、この客館が機能していたのはわずか100年ほどだったと見られています。
しかし、なぜ使われなくなったかなどの全貌は明らかになっていません。
平成26年には特別史跡大宰府跡へ追加となりました。
おわりに
今回は最近、太宰府で発見された謎の宿泊施設について紹介しました。
このことは資料で知ったので実際に跡地に行けていません。
是非行って、また紹介できたらと思います!!
※2020年3月に行ってきましたが、大きな看板があるだけでした。
まだ整備途中みたいです。
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