【菅原道真】太宰府へ左遷!その時の心中は?道中は?生活は?紹介します!!

行きつけは立ち飲み屋、トリぞーです。

 

前回は昌泰の変である

 

道真の左遷までの背景を紹介しました。

【菅原道真】左遷の背景〜やっぱり嫉妬が原因!藤原時平の嘘で太宰府へ〜

今回はその後の道真の心中や

 

太宰府までの道中、生活を紹介します。

 

 

失意のうちに

 

藤原時平の陰謀により

 

太宰府に左遷されることになった菅原道真。

 

全く身に覚えがない道真でしたが

 

一言の弁解も受け入れて貰えませんでした。

 

そして昌泰4年(901)2月1日

 

自邸を出立します。

 

その時に詠まれた和歌がこちら

 

『東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花   あるじなしとて 春な忘れそ』

 

『春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けてくれ梅の花よ。主人である私がいないからといって春を忘れてはならないぞ』

 

 

送使の善友益友(よしとも ますとも)が衛士2人を率いて

 

大宰府へ先導します。

 

道真の従者は幼子の紅姫(べにひめ)隈麿(くままろ)

 

門下生の味酒安行(うまさけ やすゆき)の3人

 

長子高視を初め、子息4人が流刑に処され

 

門弟の中・下級の官吏も同様の処置となり

 

道真派の人々は

 

梅の花が散るように

 

散り散りになってしまいました。

 

 

 

大宰府までの道中

 

道真一行は大阪の摂津から淀川を下り

 

瀬戸内海に出て明石に向かいます。

 

明石から周防の国府(現在の山口県防府市)に立ち寄り

 

そこから豊前国(大分県)に着船し

 

さらに海岸沿いに関門海峡を経て

 

博多に着船します。

 

 

大宰府での生活

 

菅原道真は大宰府に左遷され

 

府の南館である榎社での生活が始まります。

 

 

しかし、大宰権師という役職ではありますが

 

公務もなく、囚人同様の生活

 

健康も損ない見ていられないほどのものでした。

 

この間に詠まれた多くの漢詩が残っています。

 

海鳥社『太宰府紀行』には

 

『あばら家で床が落ち、雨が漏れて衣服を濡らし、大切な書物を損じた、垣根も崩れたまま、自身も胃を病み、脚気と皮膚病にも悩まされ、それでも恨み言は少しもなく、朝廷への忠誠と己の境遇を平静に見つめる心根があふれる生活であった』

 

と記されています。

 

道真の最期

 

道真は栄光を極めた右大臣から

 

2年間の幽閉生活を余儀なくされ

 

延喜3年(903)2月25日

 

失意のうちに栄光と苦難に満ちた

 

59歳の生涯を閉じました。

 

 

後日談

 

道真が博多の那珂川沿いに上陸したとき

 

川面に浮かぶ自らのやつれた姿を見て

 

嘆き悲しんだという話が伝わっています。

 

福岡の者がそんな道真を偲んで

 

庄村(現在の福岡市中央区今泉)に社殿を建立し

 

水鏡天神容見天神と尊称し

 

福岡の地を守っています。

 

天神とは道真を神とする称号です。

 

現在の福岡市中央区天神の地名はここに由来します。

 

のちに、福岡藩初代藩主

 

黒田長政によって水鏡天満宮として

 

現在地(福岡市中央区天神1丁目)に移されました。

 

以来、道真に由来する水鏡天満宮は

 

福岡城の鬼門除けとして

 

この福岡の地を守っています。

 

つづく

 

今回は菅原道真が大宰府に左遷され

 

生涯を閉じるまでを紹介しました。

 

現在も水鏡天満宮や天神という地名として

 

道真を感じることができます。

 

道真の死後

 

怨霊伝説というものが現れます。

 

次回は怨霊と言われた死後の道真を紹介したいと思います。

 

つづく!!

 

 

 

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