【菅原道真】阿衡の紛議を見事解決!!京に戻った道真は順調に出世の道へ!!

餅まく人は誰でもヒーロー、トリぞーです。

 

前回は阿衡の紛議の黒幕、

 

藤原佐世の陰謀を紹介しました。

【菅原道真】阿衡の紛議に黒幕がいた!?藤原佐世の陰謀を紹介します!!

宇多天皇のピンチを救った道真

 

名誉挽回となるか!?

 

道真 京へ復帰

 

阿衡の紛議により、荒れに荒れた宇多天皇率いる政界でしたが

 

菅原道真の意見書によって見事解決しました。

 

 

宇多「サンキューやで、道真はん」

 

道真「当然です。キラリ」

 

 

道真は天皇の信頼を得ることとなり

 

4年間の讃岐での任期を終え、に戻りました。

 

すると、天皇の秘書的な役柄である蔵人頭(くろうどのとう)に任命され

 

さらには式部少輔(しきぶのしょう)に任命されます。

 

さらにさらに、最高の行政機関である太政官の次官である

 

佐中弁(さちゅうべん)を兼ねることになります。

 

左中弁は正五位上相当になります。

 

讃岐守をしていた頃は従五位下だった道真ですので

 

出世して京に凱旋しました。

 

 

宇多「(よくもジッジを追放してくれたな基経)」

 

宇多「(道真を側に置けばあの薄らバカも何も言えんやろ)」

 

 

阿衡の紛議により、自分がただの操り人形であると政界に晒された宇多天皇でしたが

 

自分中心の政界を実現しようと

 

基経を黙らせた道真を側に置くための人事でした。

 

 

 

遣唐使派遣の中止

 

寛平6年(894)道真は遣唐使派遣を中止したいと意見します。

 

 

推古8年(600)あの聖徳太子の遣隋使派遣から始まり

 

隋が滅び、唐が建国された舒明天皇2年(630)の遣唐使派遣へと継続さた国家行事。

 

それは、日本に先進的な政治制度や国際的な文化と技術をもたらし

 

大きな影響を与えました。

 

しかし、道真50歳の時、この重要な遣唐使派遣の中止を発表します。

 

道真の家系は中国の歴史について研究する家系であり

 

もちろん道真も心の中では中国へ渡りたい気持ちがありました。

 

そんな道真ですが、以下の理由から遣唐使派遣を中止しました。

 

唐の疲弊

唐では長く戦乱が続き、国家として疲弊の極にあり、すでに没落した状態であった。
 (実際この12年後に滅びた。)

 

渡唐の困難さ

海路が険しく、当時の船や航海術では遭難する確率が高く、優秀な人材を失う可能性が非常に高かった。記録によると、遣唐使船の半数強は海難事故にあっている。

 

財政難

派遣のための船費、使者の旅費、土産の品々などの膨大な費用を必要とした。遣唐使は日中交流のために開始したのに、いつの間にか中国の太鼓持ちみたいに扱われることも本意ではなかった。

 

 

つづく

今回は阿衡の紛議を見事解決し

 

讃岐守から京へ復帰した道真が

 

情勢を判断し、遣唐使派遣を中止したところまでを紹介しました。

 

伝統ある中国への派遣ですが

 

道真は派遣を継続することで、優秀な人材を失うことが忍びなかったと思います。

 

しかしそれは、当時の情勢を正確に見極めた素晴らしい判断となります。

 

これにより、これまでの中国文化の模倣が薄らぎ

 

わが国独自の文化が芽生えるとともに

 

律令制度から摂関政治へ、変化を迎えることになります。

 

政治制度まで変化させることになる道真ですが

 

やっぱり出る杭は打たれます。

 

ますます出世する道真に、またもや嫉妬の渦が…

 

どうなる道真!!

 

つづく!!

 

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